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第15章⑲
このまま上昇を続けたらどうなるか、黒木は知っていた。気を失う。その瞬間に、勝負は決まる。敗北、すなわち死――。
選択の余地はない。追いつかれ、撃たれる危険を承知で、黒木は背面位から旋回に移った。敵に背中をさらす瞬間がいちばん危ない。だが、音は聞こえず、目も見えない。敵弾が当たったかさえ分からなかった。
「――くそ、くそ、くそ! 見えろ!!」
視力が回復するきざしは、一向に現れない。
止まるわけにはいかない。かといって、このまま盲目状態で飛行を続けるのは狂気の沙汰だ。外では敵と味方が入りみだれて、戦闘を続けている。運が悪ければ、ぶつかって共倒れしかねない。もっとも、このまま為すすべもなく撃墜される確率の方が遥かに高そうだが。
豪胆な黒木でも、さすがに平静ではいられなかった。
死神の冷たい手が、自分の首を絞めあげようとしている。一瞬、そんな考えさえ浮かぶ。
けれども、すぐに怒りがこみ上げてきて、らしくもない妄念を吹き飛ばした。
――俺の首を絞めて許されんのは、後にも先にもただ一人…ーー。
「金蘭洙 だけだ!」
愛する男のことを思うと、この八方ふさがりの状況でも、切りぬけようという気力が湧いてきた。黒木は手さぐりで、無線のスイッチを入れた。
「こちら、黒木。今から急降下する。下にいる奴は即、退避しろ!」
言い終えると同時に、黒木は操縦桿を全力で押し込んだ。
視力を失う寸前、高度計の数値は五千メートル近くを指していた。そこから降下しても地面に激突せずに済む数字を、頭の中でたたき出す。気づかぬ内に高度を落としている可能性を考慮すれば、十五秒が限界だろう。
もちろん想定以上に低い高度を飛んでいたらーーその時は、あの世行きだ。
命がかかった賭け。
極限状況での秒読みを、黒木は0.1秒に満たない誤差でやってのけた。
そして、きっちり十五秒後に操縦桿を引いた。
運は尽きていなかった。大地にたたきつけられることも、他の戦闘機に衝突することもなく、飛燕は水平飛行にうつった。
同時にわずかずつではあるが、視力が回復しはじめた。
計器類はまだ読めない。だが、風防の向こうで影がーー敵か味方か判別できないもののーー飛び交うのが見える。
なんとかなるかもしれない。黒木は希望を抱きかけた。
しかし、後ろを振り返った瞬間、それはあっけなく打ち砕かれた。
魚を飲み込もうとする鮫のように、巨大な影が真後ろで口を開けていた。黒木を射程圏内にとらえたF6Fだった。六丁ある一二.七ミリ機銃が、一気に火を吹いた。
黒木は足のペダルを踏んで、機体をねじり込んだ。とっさの回避行動だった。
まだ聴力は回復していないので弾丸が当たっても分からない。それでも、この距離で敵が外すと思うほど、呆けてはいなかった。
仮にそうだとしても、次こそ命中弾を食らわせてくる。
ーー終わった…。
黒木は観念した。もう一度、後ろを確かめたのは、もう悪あがき以外のなにものでもない。
影はまだそこにある。皮肉なことに、死に近づくほど目がはっきり見えてきた。その時になって、黒木は自分を追う影がひとつではなく、もうひとつ増えていることに気づいた。
両者の形が違うことにも。
黒木を追うF6Fの背後から、追いついてきた飛燕が猛烈な掃射を行った。撃墜には至らなかったが、「性悪女」を追い払うには十分すぎるほどの弾数だった。形成不利と見たF6Fは、黒木への攻撃を中止し、降下して逃げていった。
助かったーー助けられたと、黒木が実感したのは、それからまもなくのことだ。
灰色だった世界が色を取り戻す。聴力も回復し、ようやく無線の声も聞こえるようになった。
「――…応答してください! 黒木大尉どの! 頼むから返事をーー」
雑音まじりでも、それが誰の声かすぐに分かった。
「しつこい。聞こえている」
黒木は憎まれ口を叩いた。さすがに、声色にいつもの力はなかったが。
案の定、応答を返すだけでは十分でなかったようだ。自分の危機を救ってくれた飛燕が、黒木の横に並ぶ。先ほど無線をよこしてきた金本に、黒木はかろうじて手を振った。
黒木が予想したより長く、敵はねばった。
しかし最後には、帰路の燃料を残存させることを優先して撤退していった。
黒木は追撃を行わなかった。とてもではないが、そんな余力は残っていなかった。
撃墜数は四。それに対し、被撃墜数は五。負け戦であった。
墜とされた味方の内、四機はらいちょう隊の所属だった。隊長もこの戦いで戦死したことから、ほとんど壊滅と言ってよい。救援の任務は、失敗に終わったと言わざるを得なかった。
そして残る一機は、はなどり隊所属の根津少尉の機だった。根津は敵を墜とすことに固執し、逆に背後を取られて被弾した。機体はそのまま炎上して墜落。その日のうちに、根津は戦死と判定された。
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