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第15章⑳

 調布飛行場へ着陸した黒木は、飛燕の操縦席でしばらく動けなかった。  一度の戦いで味方を五機も失った。その事実が、両肩に重くのしかかってくる。しかし今は、落ち込んでいる時ではなかった。  気力をふるいおこして、操縦席から地上へすべり降りる。整備兵に機体の状態を尋ねようとした時、先に着陸していた金本がかけつけた。 「…どこも怪我はしていない」  黒木は機先を制して言う。だが、もちろんそれで黙る金本ではなかった。 「先刻の戦い。明らかに、様子がおかしかったでしょう。怪我じゃないなら、いったい何が起こったんです?」  黒木は顔をそむけた。  「なんでもない」と突っぱねることもできただろう。しかし、黒木はそうしなかった。本当のことを言うまで、金本が引かないと分かっていたからだ。  黒木は少し離れたところに金本を引っぱっていき、すべて白状した。  戦いの最中、いきなり視覚と聴覚を失ったと聞いて、金本は顔色を変えた。 「ーーもう今日は出撃するな。絶対に」  敬語も使わずに、金本はつめよる。黒木の予想通りの反応だった。  そして、その言葉にまったく心を動かされなかったと言えば、嘘になる。  飛ぶなという、金本の言葉に甘えたい自分がいる。だがこの男や他の搭乗員が戦う間に、自分だけが地上で安逸をむさぼるなど、それこそあり得なかった。 「俺は『はなどり隊』の隊長だ」  黒木はその大きな双眸で、金本を見すえた。 「俺が先陣切って飛ばなくて、どうするんだよ」 「意地を張っている場合じゃない。頼むから、自分の身を案じてくれ」  金本は懇願した。 「今度、同じことが起こったら、本当に死ぬぞ」 「言われなくても、それくらい分かってる。身体の不調のことは、他の連中には黙っておけよ。士気にかかわる」  黒木は本気だ。本当に、飛ぶ気だ。 ーーなんとかして諦めさせないと。  金本は必死で頭をひねった。黒木を力まかせの方法で気絶させるという、かなり物騒な考えが最初に浮かぶ。けれども、さすがにこれは断念した。二人きりの時ならいざ知らず、衆人環視の中では、邪魔が入ってまず目的を達せられないだろう。  そこまで考えた時、金本ははたと気づいた。 「お前がよくても、肝心の飛燕は? 飛ばせる状態か? さっきの戦いで、何発も銃弾を受けたんじゃないか」 「……」  この指摘には、黒木もとっさに反論できなかった。  F6Fは黒木の飛燕に、いくつもの弾痕を残していた。命中した弾丸が、内部機構にどんな損傷を与えたか、見当もつかない。  さらに帰路についた時から、嫌な振動がはじまっていた。特に翼のあたりから。先ほど、機体を見たら、翼のジュラルミンを止める(リベット)が、十個以上なくなっていた。短時間で急降下と急上昇を繰り返し、無理な動きを重ねた結果、想定以上の負荷がかかった結果だ。  黒木は近くにいた整備兵をつかまえて尋ねた。 「応急処置で間に合いそうか?」  現状では難しい、と言うのが相手の答えだった。少なくとも、なくなったリベットを補い、機銃の穴をふさぐだけでも、二時間以上はかかるという返事だった。さらに、内部機構が損傷していれば、本格的な修理が必要となってくる。 「予備機は?」 「飛ばせる機体はすべて飛ばしています。掩体壕や格納庫に残っているのは故障機で、しかも被弾時の炎上防止のために、燃料を抜いてあります」  その回答に、黒木はいらだった。それに反比例して、金本は安堵し始める。  二人のところへ、笠倉曹長がやって来たのは、ちょうどそんな時だった。  古参の曹長の顔にも、さすがに疲労が出はじめていた。早朝に米軍機が襲来したこともあって、ヒゲを剃る間がなく、アゴと鼻の下に無精ヒゲが目立ってきている。そのせいで、実際の年齢よりも、ずっと年かさに見えた。  その笠倉は金本をちらりと見てから、黒木に「取り込み中ですか?」と言った。 「かまわん。どうした?」  聞き返された笠倉は、ひと呼吸置いて上官に告げた。 「竹内軍曹が倒れました」  これには黒木も驚いた。 「負傷か?」 「いえ。見たところ、ケガはないです。けど着陸した後、吐きました。聞いたら、先ほどの戦闘中に、酸素マスクから急に空気が供給されなくなったそうです。とにかく一度、機体から降りろと言って降ろしたら、そのまま白目をむいて、ひっくり返っちまいました。あ、気失っただけで、息はあるんで安心してください。軍医どのに今、診てもらっています。だけど、多分戦闘の継続は無理なんじゃないかと…」  言いながら、笠倉は黒木の反応をうかがった。内心、ヒヤヒヤしている。  というのも、今報告した内容には、明らかな誇張が含まれていたからだ。  竹内が吐いたのは事実だ。だが、気絶はしていない。そして酸素マスクのくだりは、完全につくり話だった。  竹内の不調の直接の原因は、すぐ近くで根津が撃墜されるのを目撃したことだ。そこに今朝からの疲労が重なって、張りつめていた身体が一気に崩れてしまったようだ。  嘔吐した後、土気色で身体を震わせる男を見て、笠倉は「こりゃダメだ」と思った。  とてもではないが、戦える状態ではない。このまま上空に上げても、敵の(まと)になるだけだ。  それでも、竹内は地上に残ることを頑なに拒んだ。二、三時間だけでも休めと、笠倉が言っても無駄だった。笠倉はほとほと困った。どうするかと思案していた時、曹長は機体を点検する整備兵に目をとめた。その顔に見覚えがあった。  飛行隊が浜松に転進した後も、一部の整備兵は特攻機の整備要員として調布に残された。くだんの整備兵がその一人だと思い出した笠倉は、彼を呼び止めて言った。 「おい。あそこで吐いているやつだが。とてもじゃないが、飛べそうには見えないよな」 「はあ……そのようですね」  ひげ面の曹長に急に話しかけられた整備兵は、とまどいながらも答えた。  笠倉はそれにかぶせるように言った。 「あいつの機体も、不調で飛ぶのは無理だな。そうだろう?」  整備兵はまじまじと、笠倉を見返した。その反応に、笠倉は一瞬やり方を間違えたかとあせる。けれど、竹内の方を眺めた整備兵の表情は、すぐに理解のそれにとってかわった。  数秒沈黙した後、相手は笠倉に向かってうなずいた。  どう見ても飛ぶには不適当な搭乗員を、地上にとどめて生きのびさせる。  その共犯になるという合図だった。 「――おっしゃる通りです。どうも、酸素供給系統に不具合があります。誰かに聞かれたら、そう答えていただけますか」 「おう、分かった」  笠倉は整備兵の肩を叩いた。その耳元で「恩に着る」と小声で礼を伝える。整備兵はほんの一瞬、目だけで笑った。  こうして笠倉は、「機体の不具合」を理由に竹内を納得させ、さらにふらつく男を軍医の手にゆだねた次第だった。  …虚実を交えた報告を終えた笠倉に、黒木はジロリと一瞥くれた。 「機体の不具合は、酸素のことだけか?」 「…小官が聞いたのは、それだけですが」 「それくらいなら、短時間の部品交換でなんとかなるはずだ。前に同じ問題が別のやつに起こった時、千葉が三十分程度で対処した」  笠倉はうめきたくなるのを寸前でこらえた。これはついていない。 「いやあ。しかし竹内の方がちょっと無理なんじゃないかと…」  仕方がない。こうなれば、もうひとつの嘘でねばるしかない。  笠倉がそう思っていると、黒木が言い放った。 「竹内は乗せなくていい。乗るのは、俺だ」 「……は?」 「俺の機体は先ほどだいぶやられて、修理しないと飛ばせん。だから、竹内の機体を借りるぞ。駐機したところに案内しろ」  そう言うが早いか、黒木はもう歩き出している。  笠倉はあっけにとられる。我に返り、急いであとに続こうとした時、横に並んだ金本がボソリとつぶやいた。 「…余計なことを」  金本はそれ以上、言わなかった。だが、かなり怒っているのは、顔つきから明らかだ。  笠倉は思わず、寒気を覚えた。金本は怒りだけでなく、殺気めいたものまで漂わせている。飛行手袋に包まれた両手を伸ばして、笠倉の首を絞めても全然、おかしくない気がした。  黒木が危険人物なのは知れわたっている。  しかし、この朝鮮人の曹長も実は相当にやばい人間なのではないかと、笠倉は初めて思った。

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