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第15章㉑
竹内の機体がある駐機場まで黒木を案内すると、笠倉は可及的速やかにその場から離れた。
金本の怒りもさることながら、金本と黒木との間で何やらいさかいが生じそうな気配を、敏感に感じ取ったからだ。めんどうごとは避けるに限る。まあ、黒木の希望通りに、飛燕は飛ぶことになるだろう。元々、故障などしていないのであるから。
笠倉はそのまま自分の機体に戻りかけ、途中で思い直して方向転換した。
向かったの先は、自分の小隊で唯一、残った人間のところだ。
東智伍長は掩体壕の近くにいた。少年ぽさが残る顔を寒風にさらしながら、立ったまま航空糧食をかじり、整備兵にもらったらしい湯気の立つ茶で流し込んでいる。その姿を見た笠倉は、思わずにやりとした。
「けっこう、けっこう。この状況で食う元気があるとは、大したもんだ」
笠倉に褒められても、東は特にうれしそうにはしなかった。
それでも、笠倉が煙草をくわえて横に並ぶと、自分の方から口を開いた。
「減りましたね、人数。はなどりが十一で、らいちょうが四…」
「わざわざ、嫌な現実を思い出させるなよ」
笠倉は煙を吹き上げ、ぼやいた。
「あー、戦いたくねえ。正直、逃げてえ」
「士気が下がること、言わないでください」
「いいだろう。どうせ、お前しか聞いていないし」
「そういう情けない台詞を、上官どのの口から聞きたくないです」
「あー、あー、そうかよ。悪かったな」
笠倉はふてくされた顔になる。もういいだろう。東が大丈夫なのは確認できた。
これで用事は済んだとばかりに、笠倉は掩体壕に預けていた背中を離す。
その時、東が独り言のようにつぶやいた。
「……正直なところ。勝ち目、限りなくないですよね」
思わず横を向く笠倉に、東は淡々と言った。
「この戦争。アメリカに勝てると、もう思えないんです」
「逃げ出したくなったか?」
笠倉は怒りもせずに聞く。東は顔を強張らせて、「いいえ」と答えた。
「そんなことをしたら。先に死んでいった工藤少尉や米田たちに顔むけできません。けどーー」
頬に赤みがさし、顔がゆがむ。
「負けたら、と思うと。腹がよじれるくらい、悔しくなってたまらない」
笠倉は東の様子を眺め、困ったように頭をかいた。天を仰ぐ。ため息と一緒にまた煙を吐いて、曹長はくわえていた煙草をはなした。
「ーーどんな結末を迎えても。生きのびられたら、上々だよ。お前、まだ十九だろう。どう考えても、戦争終わった後の人生の方が長いだろうが」
「生きのびる気なんて、全然ないです」
東の弱音を、笠倉は鼻で笑った。
「格好つけるな。あきらめが早いぞ、若造」
「曹長どのは、生き残る気満々ですね」
「当たり前だ。どんだけ悲惨で絶望的な状況でも、俺は切り抜けてきたんだ。これからも、そうする。そんでもって、長生きするんだ。この隊の誰よりも、もちろんお前よりもな」
東はあきれたように肩をすくめる。それから、何気なくたずねた。
「曹長どのが今までで出くわした、いちばん悲惨で絶望的な状況って、どんなのですか」
「……それ聞くか?」
若いからだろうか。それとも、そういう性分なのか。無神経というわけではなく、鈍感というのとも少し違う。けれども、東智という青年には、意図せず人の心を逆なでしてしまうところがあった。
「予言してやる。将来その口のせいで、お前、絶対に苦労するからな」
嫌味を前置きにして、笠倉は話してやった。
別に大したことではなく、どこにでも転がっているありふれた出来事のように。
「南方で俺が所属していた飛行隊が、補充が間に合わずに四人になった。そこに、米軍のP-47の集団と戦えと指令が来た。戦闘が終わった時には三人が撃ち落とされて、残る一人も腹を撃たれて死にかけていた」
その一人が俺だと、笠倉は軽い口調で告げた。
飛ぶ前から、分かりきっていた。まともな戦いになるはずがないと。それでも、上から命令が下れば、飛ぶ以外になかった。
戦地に奇跡など起こらない。
部下二人が撃墜された後、隊長が笠倉に下した命令は「逃げのびろ」だった。
おそらく、後にも先にもその時だけだ。「逃げろ」と言われて、従わなかったのは。
P-47たちを相手に、死に物狂いで戦う間、隊長が浴びせてきた怒鳴り声を、笠倉は今でも覚えている。
「笠倉! らしくないこと、するんじゃねぇ! 馬鹿野郎が!!――」
全く、その通り。あれほど自分らしくない行動もなかった。結局、誰も救えず、持ち帰ることができたのは自分の命だけだった。それも、血と肉をずいぶん削り取られて。
戻った飛行場で、痛みと出血で失神し、目が覚めて自分以外の全員が戦死認定されたと伝えられた。その時、笠倉は決意した。
せっかく拾った命だ。こうなったら、とことん生きのびてやろうと。
仮に生き残ったのが別の誰かだったとしたら、そいつが長生きすることを同じように願ったであろうから。
竹内の機体は、必要な部品を交換した上、他に異常が見つからなければ、三十分以内に離陸できるとのことだった。
金本はそれを聞いてなお、黒木に飛ばないよう説き続けた。だが、相手は頑として聞き入れない。しまいに黒木が癇癪を起こしかけた時、浜松に残る戦隊長から新しい指令が届いた。
「――らいちょう隊の生存者は、『はなどり隊』の黒木栄也大尉の指揮下に入るように」
連絡の兵からそれを聞いた黒木は、すぐにらいちょう隊の生き残りが集まっている場所へ向かった。つきまとって離れない金本も、「来い」と言って連れて行く。ひとりでも事足りるが、金本がそばにいてくれる方が、少しばかり気が楽だった。
同じ戦隊に所属するとはいえ、飛行隊は平時、ピスト も別々で、交流は限られている。また、ありがちなことであるが、どの隊も「我が飛行隊こそ一番」の自負が強く、他隊を競争相手とみなしがちだ。よその隊長に従えと言われて、おいそれと首をたてにふれるものではない。
まして、自分たちの隊長と仲間の多くが戦死した直後という、状況下にあっては。
調布飛行場のらいちょう隊のピストの前に、彼らはいた。
近づく黒木と金本に、葬儀の弔問客より何倍も陰惨な顔を向ける。四対の目にはいずれも、露骨ではないが隠しようもない敵意がたゆっている。
搭乗員たちのありさまに、金本は同情した。だが同時に、万一に備えていつでも飛び出せるよう心の準備をしておく。
金本は、黒木の方を横目でうかがう。内心がどうあれ、はなどり隊の隊長は精神的に傷だらけの搭乗員たちに、同情も哀れみも一切、示さなかった。
冷ややかと言っていい口調で、黒木は切り出した。
「貴様らの中で、いちばん階級の高いやつはどいつだ?」
四人が目を見交わす。すぐに一人の男が進み出て、黒木に向かって硬い敬礼をした。
その搭乗員の顔には、鼻の下からアゴにかけて、一直線に走る特徴的な傷跡があった。
「らいちょう隊。蓮田周作少尉です」
「戦隊長の指令は聞いたか?」
「今しがた、連絡の兵から聞きました」
「よし。戦闘が継続可能なのは何人だ?」
蓮田は三人を振り返り、彼らの顔を見てかすかにうなずいた。
「全員、戦えます。ただ一つだけ、黒木大尉どのに願い出たいことがあります」
「なんだ?」
「どうか、この四人で戦わせてください。四人で一小隊として、指揮下に入れていただきたい」
それを聞いて、黒木は形のいい眉をはね上げた。
蓮田の申し出は、黒木が思い描いていた構想とは違う。はなどり隊は今村、根津、竹内が脱落した。その穴を、らいちょう隊の生存者で埋めるつもりだった。
黒木は蓮田をジロリと睨んだ。だが、蓮田も負けてはいない。傷跡の走る唇を一文字に引き結び、黒木の冷たい視線を受け止める。一歩も引かぬというその態度に黒木はいらだったが、同時に少しだけ感心した。
こういう気概と胆力がある人間は嫌いではなかった。整備班長の千葉や、今、横にいる金本のように。
「…貴様、小隊指揮の経験は?」
「あります。今日の戦いでも、そうでした」
黒木は考えを巡らした。決断を下すまで、長くはかからなかった。
黒木は一歩前に出て、蓮田に言った。
「いいだろう。貴様らの希望通りにしてやる。そのかわり、もう無駄死には許さん。これ以上、数を減らすなよ」
蓮田の目に一瞬、怒気がひらめくのを金本は確かに見た。
これは黒木の言い方がまずい。人死を出したくないと言いたいのであろうがーーまるで、らいちょう隊の隊長たちの死が「無駄」だったと言っていると、受け取られても仕方がなかった。
蓮田が拳を握りしめる。黒木に殴りかかるのではないかと、金本は一瞬危惧する。しかし、怒りを内に抱いたとしても、蓮田は黒木よりもずっと精神的に成熟していた。
らいちょう隊の生き残りの男は、荒れた敬礼をひとつして、ざらついた声で言った。
「ーーご配慮、感謝いたします」
心温まるとは言いがたい対面は、こうして終わった。
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