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第15章㉒

 楽しいとは言えない仕事を終えて、黒木の肩からひとつ重荷が下りる。  しかし、まだ面倒ごとが残っていた。 「どうあっても飛ぶ気か、栄也?」 「しつこいな、お前も」  言うまでもない。金本の存在だ。殴って言うことを聞くなら簡単だが、あいにくそういう男ではない。掩体壕のそばで、黒木は足をとめて金本に向き直る。 「無理はしないと、約束する」 「信用できない」  金本は即座に断言した。まあ、無理もない。実際の戦闘でそれを守れるとは、言った黒木本人でさえ思っていなかった。 「少なくとも、連続で急上昇することは避ける。俺だって、死にたいわけじゃないーー」  黒木がなお言おうとした時、再び空襲警報が鳴り出した。  黒木はわずらわしそうに、顔をしかめた。けたたましいサイレンの音も、いいかげん聴き慣れてきた。単調な高音と低音の繰り返し。できそこないの交響曲の調べに合わせて、自分たちは再び命がけの舞台へ上がって踊らされる。  滑稽であり、哀れでもある、それが現実だった。 「時間だ。行くぞ」  黒木はそう言い捨てて、駆け出そうとした。その腕を金本がつかんで引き止めた。  皆がサイレンに気を取られている方に、そして掩体壕の陰になって飛行場の方から見えない方にかけて、金本は黒木に素早く口づけた。 「…これが最後になったら。承知しないからな」  黒木が飛ぶことに、いまだ納得していない。けれども、ここでケンカしたまま別れたくはなかった。  黒木は何も言わなかった。ほんの一瞬、笑みをひらめかせただけで、金本に背を向けて走り出す。後を追う金本は、夕暮れまでの時間を計算した。大体、あと三時間。 ーー頼むから、あと三時間、あの男を無事でいさせてくれ。  金本は普段、拝みもしない神仏に対して、心の中で祈った。  時を同じくして、笠倉と東も自分たちの飛燕を目指して駆け出している。  機体へたどり着く手前で、二人は偶然、黒木を探しに来た調布飛行場作戦室付きの少尉に出くわした。その男の口から、笠倉たちは敵の規模を知らされた。 「最大規模の来襲だ。推定で、四百機前後だ」  聞かされて、笠倉も東も愕然となった。早朝以来、何度か襲来があったが、いずれも敵の数は百機前後で推移していた。それがいきなり、四倍である。  少尉があわただしく去った後、東がぼそりと言った。 「敵は日暮れ前に、できる限りこちらに損害を与える気みたいですね」 「…的確な分析、ありがとよ」  笠倉は皮肉を言ってから、喫いかけだったタバコをふかした。 「あー、くそ。こりゃ、今度こそダメかもしれん」 「…ちょっと。あきらめが早すぎやしませんか。さっき、絶対に生き残るって言ったのは、どの口です?」 「この口だよ。()あってるよ」  笠倉は頭に手を当て、はぁ、とため息をついた。 「なあ、東」 「なんです」 「お前、俺と心中する気あるか?」 「御免こうむります」  若い伍長は即答した。  その後で、東は飛行靴のかかとを打ちつけ、いぶかる笠倉に向かって敬礼した。 「――でも、最後までついていきます。たとえそれで死んでも、悔いはありませんから」  笠倉は目を数回しばたかせた。おもむろに手を上げたので、敬礼するのかと思いきや、東の頭を飛行帽の上からパシっと叩いた。 「格好つけてないで。今のうちに小便、済ませに行け」  東の首筋にさっと朱がさす。さっさと立ち去る笠倉の背中を、わめき声が追いかけてくる。 「――俺は、あんたのそういうところが嫌いなんだ! こっちが真剣にやっているのに、この……!」  笠倉は振り返りもせず、タバコをつまんだ手をヒラヒラと振った。  すっかり短くなった吸いさしを最後にもう一度、くわえて味わう。  苦くてまずい。今の状況には、ピッタリだ。 「…死ぬんじゃねえぞ、若造」  笠倉は吸い殻を放り捨て、飛燕へと向かった。

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