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第15章㉕
「――かぁー。なんとか生き残れたな。僥倖、僥倖……」
操縦席から地上に降り立った笠倉は、こり固まった肩の筋に手をやって、ポキポキと鳴らした。まだくすぶっている格納庫は見ないようにする。今日の死者のことも、ひとまず思考の外に追いやる。そうやって心に壁をつくって距離を置かないと、乗りきれない。
笠倉は飛燕を整備兵の手にゆだねると、ポケットから配給品の「光」を取り出した。箱を開け、最後の一本を取り出す。急がなくていいと、黒木隊長直々のお達しだ。タバコで一服するくらい、かまわないだろう。
「…ま、その前に。ひと声、かけとくか」
笠倉はタバコをくわえ、最後まで自分の僚機をつとめた男の姿を探した。
首をめぐらした笠倉は、駐機場の一角に人だかりができているのに気づいた。停まった飛燕の周りを、七、八人の整備兵が取り囲んでいる。
尾翼の機体番号を目にして、笠倉は思わず固まった。
東の飛燕だった。当の本人だけ、なぜか姿が見えない。
「おい、おい、おい……冗談じゃないぞ」
笠倉はぼやいた。脳裏に、ロクでもない可能性がいくつも浮かぶ。
敵の機銃での負傷。着陸時のアクシデントによる怪我。酸素ボンベから酸素が流れなかったせいで、搭乗員が死亡する事故が過去に複数件、起こっている……。
早足で飛燕へ向かいながら、笠倉は自分に「とりあえず落ち着け」言い聞かせた。
少なくとも着陸寸前まで、東の様子におかしなところはなかった――はずだ。
飛燕を取り囲む整備兵の一人をつかまえて、笠倉は尋ねた。
「どうした。問題発生か?」
いえ、大したことではありません。なんでもないですーーそういう返事が聞きたかった。
こちらに向けられた整備兵の顔つきで、笠倉はイヤな事態が進行中であることを知った。
「東伍長が降りてこないんです」
整備兵が飛燕を指さす。
「操縦席に座ったまま全然、動かないんです。返事もありません」
「風防開けて、引きずり出せばいいだろう」
「それが、なんでか開かなくて…」
みなまで聞かず、笠倉は整備兵たちを押しのけ、飛燕の翼に跳び乗った。
先ほどの整備兵が言った通りだ。東は操縦席の中にいた。酸素マスクも飛行眼鏡もつけたままである。見たところ怪我はないが、明かに意識がない。
反対側の翼によじ登った整備兵と力を合わせ、笠倉は風防ガラスをこじ開けようとした。
だが、言われた通りだ。何か引っかかっているのか、開閉式のガラスがちっとも滑らない。
あれこれ試す内に、笠倉はやっと原因を見つけた。
彼がいる側の風防の窓枠に、米軍の十二.七ミリ弾が、ガッチリと食い込んでいた。これではつっかえて、開くものも開かない。笠倉は工具を借りると、急いで弾を除去した。
それでやっと風防を滑らせることができた。
「おい、東…!」
笠倉ともう一人の整備兵が身を乗り出して、酸素マスクと飛行眼鏡を帽子ごとむしり取った。呼吸の有無を最優先で確認する。
笠倉の耳に入ってきたのは、これ以上ないくらいに規則的な寝息の音だった。
「………えっと」整備兵が呆気に取られる。
翼の反対側で、笠倉はへたり込んだ。
「こいつ。寝てやがる」
今までの心配の反動から、笠倉は安堵を通り越して、軽い怒りにかられた。
東の頭を叩いて起こすべく、手をあげる。
しかし疲れ切った相手の寝顔を見ている内に、その気も失せてしまった。
「…少しの間、このまま寝かせてやっといてくれ。今日は、色々と大変だったから」
その時になって、笠倉はくわえていたタバコをどこかに落としたことに気づいた。
「あー…ついてねぇ」
もはや拾いに行く気力もない。翼の上から降りるのさえ、面倒くさくなってきた。
笠倉はため息をついて頭をかく。それから腕を伸ばして、東の頭をポンとなでた。
「よく、がんばったよ。お前」
当然のことだが、その言葉は、熟睡する東の耳には届かなかった。
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