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第16章① 一九四七年八月

「フンフンフーン、フッフフ、フーン…」  いちばん奥の独房から、鼻歌がかすかに漏れてくる。それは軽やかな女の声だった。  夕食の膳を下げに来た看守は、声を聞いて薄気味悪そうに腕をさすった。事情を知らぬ者が見れば、彼の反応に首をかしげるかもしれない。  独房の中で、「ガラガラヘビ」はいつになく上機嫌だった。巣鴨プリズンに収監されて以来、こんなに愉快な日はなかった。危うく毒キノコを食するところだった事実さえ、今は気にならないくらいだ。 ――あのエセ牧師。やってくれたわ。  巣鴨プリズンに勤めていた教誨師。囚人たちの毒殺を図ったカナモト・イサミが、看守たちをことごとく出し抜いて、監獄から脱出を果たした。  その報せは、独房の中にいるガラガラヘビの耳にも、すでに届いていた。  言うまでもなく、監獄という閉鎖的空間は、内部から逃げ出すには圧倒的に不利だ。それをものともせず、カナモトが逃げおおせたことに、ガラガラヘビは素直に感心していた。  もっとも、カナモトを苦境に追い込んだ元凶は、他ならぬガラガラヘビなのだが。  昼食の味噌汁にドクツルタケが混じっているーーそのことに彼女が気づかなければ、今日の騒ぎは起こらなかった。カナモトは何事もなく堂々とプリズンを後にし、その後で中毒死した者たちが、ゴロゴロ転がることになっただろう。   ――せっかく逃げ出せたのだから。このままうまく、姿をくらましてもらいたいものね。  たった一人の逃亡者に、アメリカ人将校たちが振り回されているのは、それだけで痛快だった。面白くないわけがない。ガラガラヘビの心境は、まさにスポーツか競馬観戦を楽しむ観客のそれだ。 「ねえ、そこのあなた」  頑丈な鉄の扉の外にいる見張りに、ガラガラヘビは呼びかけた。 「カナモト牧師について、何か新しい知らせは入ってないの?」  その問いは、当然のように無視された。返ってきた静寂に、ガラガラヘビは鼻を鳴らす。 「もう! だんまりばっかりじゃ、嫌いになっちゃいますよ」  ガラガラヘビは非難を込めて言い、布団を敷きにかかる。  そして横になると、眠りにつくまで、まだしばらく鼻歌を口ずさんでいた。  同時刻。旧日本郵船ビル。  参謀第二部(G 2)のW将軍は、執務室に二人の男を迎え入れていた。一人は、U機関の長であるダニエル・クリアウォーター少佐。そして、もう一人は−−。 「第八軍憲兵司令官C.V.キャドウェル大佐に代わり、小官が報告させていただきます」  キャドウェルが遣わした憲兵司令部付きの大尉が、緊張した面持ちで言った。 「現在、我々は警視庁の協力のもと、総力を上げて逃亡犯を捜索中であります。東京都内の公共交通機関および主要な道路、また河川敷にも対象範囲を広げています」  大尉はそう言って、テーブルに広げた地図を前に、さらに詳しい説明を加える。  十分ほど続いた時、W将軍はテーブルを挟んで立つ二人に尋ねた。 「捜索の現状は、およそ把握した。どうだ? 今晩中に、逃げた殺人鬼を捕まえられそうか?」 「それは、日本警察の助力が、どれだけ得られるかにかかっていると思います」  クリアウォーターが言った。 「下宿していた高架下の長屋も含め、およそカナモトが足を運んだことがある場所に、すでにキャドウェル大佐が憲兵を張り込ませています。けれども、カナモトがそこに姿を現す可能性は、それほど期待できないかと」 「ふむ」 「遺憾ながら、憲兵全てを動員したとしても、都内をカバーするには十分ではありません。さらに、カナモトが服装や髪型を変えたり、ヒゲを剃り落とした場合、アメリカ人である我々が彼を発見するのは、より困難になりますーー日本人の警察官をどれだけ多く協力させられるかで、今後の展開が決まると、私は考えます」 「道理だな」  W将軍は同意した。すでに対敵諜報部隊(C I C)の要員も、捜索応援に派遣している。現時点でもっとも有効な方法は、人海戦術を置いて他にない。  W将軍は、憲兵司令部付きの大尉に言った。 「キャドウェル大佐は、警視庁に協力を要請したと言ったな」 「はっ。その通りです」 「では、私から再度、要請を行おう。大佐より、准将に言われた方が、一層やる気が出るだろうから」  W将軍はそう言ってから、肩をすくめる。 「それで。カナモト・イサミという男について、現時点でどのくらいのことをつかんでいる? そもそも、躊躇なく人を殺すような人間が、なぜ牧師になった上に、巣鴨プリズンの教誨師たりえた?」  その問いに答えたのは、クリアウォーターだ。  赤毛の少佐が口にした言葉は、将軍の意表をつくものだった。 「閣下は覚えておいででしょうか。二年前、青森県の大湊港を出発し、釜山へ向かう予定だった浮島丸(うきしままる)という船が、舞鶴沖で沈没した事件があったことを」 「…ふむ。確か、日本が無条件降伏を受け入れて、まだ二週間ほどしか経っていない頃か」 「はい。我が軍が戦中に敷設した機雷に接触し、船底に穴が開いたのが原因だったと言われています」 「悲惨な事故だな。しかし、それが今回の事件と何かつながるのだ?」 「浮島丸は日本海軍が所有する輸送艦でしたが、大湊を出る際に、大勢の朝鮮人労働者とその家族を乗せていました。事故後の調査報告書で、その数は三千人から四千人に達するとされています。彼らは日本の敗戦を受け、いち早く故郷へ戻ろうと、釜山へ向かう浮島丸へ乗船したんです。沈没地点が陸に近かったことと、季節が夏だったことが幸いし、海へ飛び込んだ乗客の大半は、生きのびることができたのですが…それでも、五百人以上が犠牲になったとみられています。そしてーーカナモトは、その犠牲者たちを利用したんです」

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