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第16章②

 浮島丸が沈没して数日も経つと、犠牲者の亡骸と乗客たちの所持品が、舞鶴のあちこちの浜に打ち上げられるようになった。  夏のことで、遺体は腐敗が著しく、海岸などで火葬にするしか無かった。  一方、所持品の行方は、不透明な部分が大きい。なんと言っても、混乱と貧困が蔓延していた時期だ。金目のものがかすめ取られたり、売り払われたという噂は後を絶たなかった。  そして、沈没事故から半年以上が経過した頃。  朝鮮南部の村々で、事故で亡くなった犠牲者の身分証や遺品を、遺族に渡して回る人物が現れた。その男こそ金本勇(カナモトイサミ)――本名を金蘭洙(キムランス)という朝鮮人であった。  遺族たちに語った話では、金本もまた浮島丸に乗り合わせ、運よく生き残ったという。生き残ったことに負い目を感じたからか。金本は遺族たちに沈没時の状況をつぶさに話し、偶然から手に入れたという犠牲者の遺品や身分証を手渡した。  繰り返すが、浮島丸沈没が起こったのは、終戦直後のもっとも混沌とした時代のことだ。  日本政府も、さらに占領にたずさわるGHQも、ほとんど何も手を打たなかった。それもあって、見放され、置き去りにされていた遺族たちの目に、金本の行いは余計に立派なものに見えた。  そして、金本は遺族に対して、自分が牧師であることを打ち明けた。 「私はずっと、日本に行き、日本の同胞たちを支え、布教につとめたいと思っているのですが。あいにく、ツテがなくてなかなか…」  朝鮮ではキリスト教、中でも新教(プロテスタント)の信者はめずらしくない。特に日本の植民地支配に抵抗する抗日運動は、新教(プロテスタント)のさまざまな団体や信者と結びついて展開された。金本が訪問した遺族の中にも、新教の信者はおり、自分が通う教会の知人たちに、金本の善行をしきりに吹聴した。 「(キム)牧師はまだ若いですが、たいへん素晴らしい方です。彼の希望を実現させることは、間違いなく神の御心にもかなうことです」  信者の手引きで金本に会った教会の有力者も、若い同胞のことが気に入った。そこで、東京の上野に近い場所にある同派の教会に宛てて、紹介状を書いてやった次第だった…。 「この時点で、本物の牧師かどうかを確認していれば、金本のウソはすぐに見破られたでしょう。けれども、遺族たちは彼の話を完全に信じ、そしてそれがまかり通ったまま、金本は東京へ現れた。教会の側でも、まさか紹介状を持ってきた者が詐欺師だとは、つゆほども疑わなかったんです」  一九四六年の夏。ちょうど今から一年前、金本は東京の上野に近い教会で働き始める。  新来の牧師は日曜礼拝の時、壇上で短い講話をすることもあったようだ。そして仕事の合間に、東京に暮らすアメリカ人の牧師たちとも、交流をするようになっていた。  その頃、すでに巣鴨プリズンでは、東京帝国大学の助教授で、僧籍にある人物が、教誨師に任じられていた。けれども、プリズンへの収容者が増加の一途を辿っていたことで、この年の秋になって新たにもう一人、教誨師を選んで任命することになった。  その話を聞きつけた金本は、人一倍、興味を持ったという。そして交流のあったアメリカ人の牧師に、自分を推薦してくれないかと話を持ちかけた。  その時点で候補者は複数いた。しかし、最終的に選ばれたのは、もっとも若い金本であった。 「連日、囚人たちと向き合う教誨師は、体力も精神力もいる。干上がったご老体には、正直キツイ仕事だ。ある程度、若くないと務まらん」  巣鴨プリズンを管理する第八軍憲兵司令官キャドウェル大佐は、クリアウォーターにそのように語った。 「加えてプリズンには、日本軍の軍属だった朝鮮人たちが、捕虜虐待の罪で収容されるケースが増えていた。彼らは日本語を話せるが、それでも朝鮮語のできる教誨師を入れることに、メリットがあると思われたんだーー俺も含めてな。そして、まんまと裁可の書類にサインしたというわけだ」  こうして、金本勇は巣鴨プリズンの教誨師という新たな肩書きを手に入れた。  彼が正体を露見させる九ヶ月前のことだった。  …クリアウォーターの話がひと段落したところで、W将軍は口を開いた。 「クリアウォーター少佐。元々、明後日の月曜日だったな。貴官が元日本陸軍の軍人を狙った連続殺人事件の捜査状況を、私のところへ報告に来る予定だったのは」 「おっしゃる通りです」 「カナモト・イサミが二人を殺したと見て、間違いないか?」 「ええ」クリアウォーターはうなずいた。 「小脇順右(こわきじゅんゆう)河内作治(かわちさくじ)の殺害現場に残されていた血文字に酷似したものが、プリズン内の観音堂という建物内で見つかりました。手塚と甲本という囚人たちが襲撃された場所です。同一犯であることは、それだけで十分証明できると判断しますが…今、それを百パーセントの確信に変えるために、キャドウェル大佐に指紋の照合を依頼しています」 「…なるほど。確か、小脇という元少佐の殺害現場に、犯人の指紋がついた木片が落ちていたと、言っていたな」 「はい。指紋のデータは警視庁に保管されています。それと巣鴨プリズンに残されていた金本の指紋とを照合し、結果が出しだい、こちらに報告してもらえるよう手配しています」 「ふむ。では、その報せを待つとして。あとは君に、いかなる仕事をしてもらうかだな。折悪く、ソコワスキー少佐は出張中で不在だ。対敵諜報部隊(CIC)の指揮を、君に任せたいところだが…そうもいかんな」  かつてクリアウォーターは対敵諜報部隊(CIC)で辣腕を振るっていたが、ある事情でそこを離れることになった。その代わりにW将軍が用意したのが、U機関の長の椅子だった。  将軍としては、こういう時こそクリアウォーターを存分に活用したいところだった。  W将軍が思考を巡らせていた時、執務室の扉が外からたたかれた。

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