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第16章④

 ――かつて大日本帝国陸軍の航空隊に、「金本勇」という名の航空兵が存在したーー。    ――その「金本」は所属から考えて、過去に小脇順右、河内作治らと接点を持つ位置にいたーー。  それらの調査報告を受けた後、参謀第二部のW将軍は、赤毛の少佐に朝鮮人航空兵「金本勇」の過去を徹底的に洗うよう命じた。  牧師を名乗っていた「金本」についての情報はあらかた出つくし、新しい情報が出てくる見込みは薄かった。そのありがたくない状況下で、航空兵であった「金本」の過去を探ることが、事件解決への突破口になりうるかもしれないーーそう、将軍は考えた。  老将軍がその任務をクリアウォーターに委ねたのも、道理があった。  小脇順右と河内作治の殺害事件を追っていたクリアウォーターの元には、二人が所属していた第六航空軍の関係者をまとめたリストがあった。クリアウォーターたちがあちこちで尋問を続けている間も、ニイガタとササキが中心になって、関係者の居所を突き止める地道な調査が続けられていた。さらに二人は、小脇と河内が第六航空軍に所属する以前、大本営に所属していた時期の関係者リストの作成も始めていた。  金本勇の過去を探るための糸口は、すでに出来上がっていた。  こうして関係者に片端から連絡を行い、話を聞いた結果、金本の兄が起こした事件や、それが原因で金本自身が憲兵に拘束された過去が明らかになった。  そして今日、ある人物から情報によって、クリアウォーターは、巣鴨プリズンに収監された元首相へと行き着いたのである。  表面上ほど、クリアウォーターは落ち着いていたわけではない。  疲労。焦り。それらを抱えた状態で、おそらくこの国でもっとも著名なA級戦犯、日本がアメリカと開戦した当時、首相であった男の尋問を行うよう命じられた。  精神的にかなり追いつめられていたが、クリアウォーターはそれを相手に悟らせることはなかった。  東條に向かい、赤毛の少佐は淡々と、この尋問のルールを告げた。 「ーー今日、この場であなたの口から話されることは、現在進行中の裁判に、いかなる影響も与えることはない。記録には残るが、裁判資料として使われることは一切ない。それは保証する」  アイダがクリアウォーターの言葉を日本語に訳すと、東條は短く、「理解した」と答えた。 「ミスター東條。今日、私があなたを呼び出したのは、ほかでもない。カナモトイサミの一件で、尋ねたいことがある」  東條は丸眼鏡の奥で、かすかに目をみはった。 「金本? 例の逃げた牧師か?」 「…そうだ」 「捕まったのか?」 「――いいや」  クリアウォーターは正直に答えた。ごまかしたり、隠し立てしたところで、意味はなかった。 「残念ながら。まだ発見されていない。現在も捜索を続けている最中だ」  金本が巣鴨プリズンから逃走して、まもなく四十八時間が経とうとしている。第八軍憲兵隊、対敵諜報部隊(CIC)、そして日本の警察が手を尽くしてもなお、その行方は掴めずにいた。  それを聞いて、東條は頭を振った。 「おおかた誰かが、匿っているのだろう。身内か、さもなくば支援者かーー見つからない時は、大抵、そうだ」  東條はかつて、満洲で関東憲兵司令官を務めた。中央に戻った後も、憲兵隊との間に常につながりがあったと噂されている。逃亡者の行方に、一家言あるのも不思議ではなかった。  クリアウォーターはただ肩をすくめただけで、元首相の意見を聞き流した。  言ったのは、別のことだ。 「ミスター東條。あなたは、牧師との間に面識はあったか?」 「面識? そうだな。彼を見かけたことはあった。しかし、言葉を交わした記憶はない。その程度の関係だ」  東條の受け答えはよどみがなく、むだもない。六十歳を越えた今も、頭の回転は衰えていないようだ。クリアウォーターは、次の質問を放つ。 「金本勇が朝鮮人であることは、知っていたか?」 「いいや。今、そちらの口から初めて聞いた」 「少なからぬ囚人が、金本が朝鮮人だということを知っていた。だが、あなたはそうではなかったと?」 「そうだ」  東條はうっすら笑みを浮かべた。 「巣鴨(ここ)で私はあまり……親しくしている人間がいないのでな。なに、孤独は悪いことばかりではない。日々に忙殺されていた昔と違って、些事に悩まされることがなく、色々と考える時間が持てる。とりわけ、自分の人生について」  クリアウォーターは東條の言葉に、思うところがなかったわけではない。しかし、口に出して感想を述べることはなかった。質問を重ねる。 「金本勇は朝鮮人だった。繰り返しになるが、この事実を聞いて、何か思い出すことはないか?」 「…いいや、何も」  言葉と裏腹に、東條が答えるまでに、わずかに間があった。  東條の反応を見て、クリアウォーターはたたみかけた。 「金本勇の本名は、金蘭洙(キムランス)という。これでも、まだ何も思い出さないか?」  その時、初めて東條の顔色が変わった。  相手の顔に驚愕が静かに広がるのを、クリアウォーターは無言で眺めた。 「…ありえない」  東條はつぶやいて、一転して声を荒げた。 「あの牧師が……あの金本勇であるはずがない!」  元首相が取り乱す様子を、クリアウォーターは冷ややかに見つめた。  赤毛の少佐は持参した書類ケースを開け、中から古びた一枚の新聞を取り出すと、東條の手元へよこした。  それは二日前に参謀第二部(G2)の本部で、W将軍らが目にした、あの「やまと新聞」だった。   紙面の見出しの一つに、東條の目が注がれた。 ――朝鮮男児の意地! 味方を救い玉砕。 金本勇曹長、散華す――   「我々も、理解に苦しんでいる」   クリアウォーターは言った。 「この記事を信じるなら。金本勇は、すでにこの世の者ではない。二年前に、死んでいる」

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