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第16章⑦

「自殺に失敗したことを、今も悔いているのか?」  クリアウォーターの問いに、東條は冷笑を浮かべる。 「私に自殺されて、今もっとも困るのはGHQであろうな。裁判を経て、絞首台に送らねばならぬ以上は。かのムッソリーニのように、死体を公衆の面前に吊るされて、民衆に石を投げつけられても、私は一向に構わないが」 「アメリカは文明国だ。そんな野蛮な所業はしない」 「文明国? 野蛮な所業はしない?」  東條の口が、嘲笑を形づくる。 「ならば、焼夷弾を日本各地に落として、街を灰塵に化し、大勢の日本人を焼き殺したことを、さぞ文明的と思っているのだろうな。広島と長崎に新型爆弾を落として、一瞬で何万という人間の命を奪ったことも、野蛮と思ってはいないのだろうーーわずかでも、欺瞞を感じはしないか。連合国、特にアメリカは、戦争を起こした罪で私を裁こうとしている。なるほど、開戦の時に首相であった私に、その責を問うのは筋が通っている。では、武器を持たぬ一般市民を、上空から一方的に虐殺するよう、命令を下したアメリカの指導者は、その指揮をした将軍は、実行した兵士たちは、果たして人道上の罪なしと言えるか? 私を含め、日本の指導者たちは、連合国に裁かれる。では連合国の人間を一体、誰が裁いてくれるというのだ?」     東條はそこで、通訳を務める人間をジロリとねめつけた。 「…どうした、アイダ准尉? なぜ黙っている。早く、私の言葉を英語にして、この少佐に伝えないか」  問われたアイダは、無言でクリアウォーターの方を見た。顔が、少しだけ青ざめている。  そのことに東條は気づかなかったが、クリアウォーターは気づいた。虜囚の身にある老人が発した問いは、大抵のことに動じない日系二世の青年の古傷に、思いがけず突き刺さったようだ。  クリアウォーターは、表情を変えなかった。ただ一言、「頼む(プリーズ)」とつぶやく。アイダは感情を押し殺して、東條の話したことを英語に翻訳した。  聞き終えて、クリアウォーターは元首相に向き直った。 「ーーアメリカは、この戦争の勝者となった」  発せられた声は、どこまでも抑制されていた。 「私は大学で歴史を学んだ。そのわずかな知識に基づくことだがーー人類の歴史上、勝った側が人殺しの罪で裁かれたことは、皆無だ」 「そうであろうな」 「だからこそ、日本人が声を上げ続けなければならない」  クリアウォーターは言った。 「我々アメリカ人はいずれ、この国(日本)にしたことを忘れる。ごく少数の例外があるかもしれないが、子どもたちに語られるのは、ただ自分達がいかに苦難を乗り越えて勝利を得たかという、栄光の道だけだ。そこに、日本人が味わった悲劇は存在しない。それを語り継ぐことができるのは……受けた傷を、痛みを、喪失を、声を上げて後世へ伝えられるのは、他ならぬ日本人自身だ。疎ましく思われようとも、黙るように脅されようとも、あなたたちが声を上げ続ける限り、過去の悲劇が消え去ることはない。アメリカ人に、犯した罪を自覚させ続けるには、十年、二十年、百年、千年経とうとも、事実を語り継いでいく以外にないんだ」  アイダの訳した日本語を聞いて、東條はしばらく何も語らなかった。  クリアウォーターの言葉に、特に心を動かされた様子も、感銘を受けた様子も見られない。あるいは、感情的になり過ぎたことを、恥と思ったのかもしれない。  表面上、平静さを取り戻した様子で元首相は言った。 「…アメリカに、色々と不満はある。けれども、ひとつだけありがたく思っていることがある。天皇陛下のことだ。陛下には、何の罪はない。それを理解して、陛下を裁判にかけるなどという所業に出なかったことだけは、ありがたいと思っている」  クリアウォーターは、眼前の老人について書かれた資料を、これまでに山ほど読んだ。  彼を非難する多数の者も、擁護する少数の者も、ある一点で見解は一致していた。  それは、東條英機のエンペラー(天皇)に対する、偽りのない忠誠心だ。 「陛下に仇なす存在を、私は決して許すことはできない」  東條は言った。 「未来の天皇となられる皇太子殿下を襲って、害さんとした金光洙は万死に値する。あの朝鮮人は、真の大逆人だ。その弟である金本勇を前線へ送ったことも、全く後悔していない」

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