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第16章⑫

「本当に、帰っても大丈夫ですか?」  三階の執務室。顔を出したサンダースに、クリアウォーターは「問題ない」とうなずく。 「すでに参謀第二部(G 2)のW将軍に、電話で大まかなことは伝えた。明日の午前中に、まとめた報告書を持っていけばいいことになった」  クリアウォーターは椅子の背に身体をあずける。  先刻の将軍とのやり取りで、ありがたくないことが改めて伝えられていた。  逃亡した「金本勇」の捜索は、今や暗礁に乗り上げていた。  キャドウェル大佐の指揮のもと、現時点で捜索範囲は東京都全域から隣接する神奈川、山梨、埼玉の三県へ広がっていた。にもかかわらず、有力な手がかりは一向に見つかっていない。  今後、捜索する地域をさらに拡大すべきか否かーー実務的な点も含めて、明日、話し合いが持たれることになり、その場にクリアウォーターも出席するよう求められていた。 「その会議は昼からの予定だ。報告書は今晩か明日の朝早く起きてまとめれば、間に合うよ」 「手伝いは?」 「私一人で、大丈夫だ」 「分かりました。では、俺はこれで失礼させていただきます」  そう言って、サンダースは律儀に敬礼する。  退室する寸前、生真面目な副官は振り返って言い添えた。 「ーー下でカトウが自主的に待機していますので。なるべく早く、行ってやってください」  それを聞いて、クリアウォーターは二度ほど目をしばたかせた。ややあって、苦笑を浮かべる。報告書を書いてから帰るという選択肢は、放棄する以外にないようだった。  十分後。クリアウォーターは書類カバンを手に、一階に降りた。  サンダースの言った通り、カトウは階段の下で待っていた。クリアウォーターの姿を認め、ひかえめな笑みを浮かべる。それだけで、クリアウォーターは抱える疲労の半分くらいが消えた気になる。  岩と砂だらけの荒野を散々歩き回った後、思いがけず一輪の百合の花を見つけた。  そんな気分だ。 「――ありがとう。待っていてくれて」 「なんでもないですよ」 「夕食は済ませたかい?」 「寮の管理人が、わざわざ作った弁当を持ってきてくれたので。それを食べました。少佐は?」 「お手伝いの丸橋さんが、晩ごはんを用意してくれているはずだ」  言いながら、クリアウォーターはカバンから懐中電灯を取り出した。 「私は君ほど夜道に自信がないから、使わせてもらうよ。では行こうか」  U機関からクリアウォーターの自邸まで、歩けば十五分ほどの距離である。  夜道をカトウと並んで歩く赤毛の青年は、いつもより口数が少なかった。それに気づいたカトウも、無理に話はしない。ただ、クリアウォーターが木の根や石を見落として転んだ場合、すみやかに支えられるよう注意を払っていた。  幸いカトウが心配するようなことは何も起こらず、無事に邸までたどり着いた。  うながされるまま、クリアウォーターに続いてカトウは玄関に足を踏み入れる。通いのお手伝いである丸橋はとっくに帰っていて、邸内は静まり返っていた。   ーー食事か、それとも暑かったのでシャワーが先か。    カトウが尋ねるようとした時、振り返ったクリアウォーターが腕を伸ばしてカトウの腰を抱き寄せた。  唇と舌の感触。急なことで心がまえが十分でなかったカトウは、されるがまま貪られた。  クリアウォーターが口を離すと、カトウの口の端から唾液が一筋、だらしなく垂れた。 「…上に一緒に来てほしい」  頬を赤くしたカトウが答えるより早く、クリアウォーターはその腕をとって、寝室へ続く階段を登り始めていた。 

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