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第16章⑬

 最後にカトウがクリアウォーターと寝室のベッドで過ごしてから、それほど日数は経っていない。けれどもここ数日、あまりに多忙だったせいか、ずいぶん前の出来事のように感じられた。  靴を脱ぎ捨て、寝具の上に転がされたカトウは、そのまま服も脱がされるかと思った。だが意外にも、クリアウォーターは恋人を抱きしめて、すぐに先には進まなかった。 「ジョージ・アキラ…」  耳元でカトウの名を呼ぶ。 「しばらく、このままでもいいかい?」 「…ええ。でも珍しいですね。いつもはすぐに、その…」 「セックスするのに?」  クリアウォーターは心地よい笑い声をあげる。 「さっきまで、そのつもりだった。けど今は君ともう少し、こうしていたい。暑苦しくないかい?」 「大丈夫です」  うそではない。入ってきた時、部屋には日中の熱気の残滓が漂っていた。しかし先ほど窓を開けたので、半分くらいすでに涼気に追い払われている。  服ごしに、背中でクリアウォーターの腕の感触を味わいながら、カトウは目を閉じる。そうすると、なじんだ身体の熱と匂いが、より鮮明に感じられた。 「――血文字の一件、見事だった」  突然ほめられて、カトウはとまどった。 「…てっきり、叱られると覚悟していましたが」 「君を叱る? どうして」 「あなたの許しもなく、独断でやったことだったので」  カトウとしても、クリアウォーターの許可を得られれば、無論そっちの方がよかった。  しかし思いついた時、赤毛の上司はアイダと共に、巣鴨プリズンへ行った後だった。  弁明するカトウの頭を、クリアウォーターは大きな手で撫でた。 「君は、重要な謎を解き明かしてくれた。とがめることなど、何もないさ」  そう言って、クリアウォーターは微笑する。 「U機関(ユニット・ユー)は、軍隊と違う規律で動いているーーいや、この表現は語弊があるな。けれども、自分の頭で考えて行動にうつす自由を、私はある程度は認めているつもりだ。前に君とフェルミとヤコブソンとで、襲撃犯を特定したことだってあっただろう(※「毒麦探し」参照)」 「…あの時、俺はたいして役立つことはしませんでしたよ」  本当だ。あれはフェルミの思いつきと画力と、それにヤコブソンの常人離れした記憶力が成しえた結果だ。  カトウはただ、ヤコブソンのいた病院まで、フェルミに付き添っただけである。  けれども、クリアウォーターの見方は違っていた。 「君は十分すぎるくらい、務めを果たしているよ。前の時も、今回も。おこがましい言い方に聞こえるだろうが、来たばかりの頃より、多くのことができるようになっている。確実に成長している」  クリアウォーターにそう言われて、カトウはうれしくなった。役に立ちたいと思っている相手に認めてもらうのは、これ以上ない喜びだ。  カトウは身体を動かし、自分から赤毛の青年に口づけした。クリアウォーターはそれに応えた。しかし、いつものような情熱が今夜はない。どこか上の空だ。 「…事件のことが、頭から離れないんですね」  カトウに指摘され、クリアウォーターは素直に「ーーうん」とうなずいた。 「すまない。こんなに素敵な(ひと)が、腕の中にいるというのに。あの殺人鬼のことが、ちらついてばかりいる」 「逃亡中の金本が、本当にまだ誰かを殺すと思いますか?」 「分からない。だが自由の身である間は、あの男は決してあきらめないと思う」  クリアウォーターのまぶたの裏に、カトウが突き止めた「丹心歌」の句が浮かぶ。  金本はーー「金本勇」を名乗る男は、なぜこの朝鮮の詩を殺人現場に残したのか。  その意図は、何なのか。  とりわけ最後の一句が、クリアウォーターの心に引っかかっていた。  ーー主にささげた一片の丹心(まごころ)は、決して変わることはないーー ーー金本にとって、「(あるじ)」は誰だ? あるいは何だ?  朝鮮人として生まれ、日本帝国陸軍の航空兵となり、アメリカをはじめとする連合国の軍隊と戦った男。その兄は、朝鮮の独立を願った果てに、自爆テロを起こして死んだ。  あまりに両極端な二人の生き様には、めまいを覚える。  金本勇ーー金蘭洙は、どのような思いを抱き、戦闘機を駆って戦い続けていたのか……。    クリアウォーターの髪を、カトウはそっと撫でる。  ほんのわずかに開いた恋人の口から、寝息がもれていた。 「…よほどおつかれだったんですね。ご飯も食べずに寝てしまった」  カトウはため息をつき、ベッドの上で仰向けにひっくり返った。  抱かれなかったことに、不満がまったくなかったと言えばウソになる。それでも無心に眠る恋人の寝顔を見ていると、不満は消えて、いたわりと愛しさにとってかわった。  あくびをして、カトウは目をこすった。疲れているのは何もクリアウォーターだけではなかった。  窓を閉め、カトウはかけ布団をクリアウォーターの上にかける。  そのそばに横になると、カトウ自身もそのまま夢も見ない眠りへ落ちていった。

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