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第16章⑭

 眠りに落ちる人間がいる一方で、眠りから覚める人間もいる。  連泊することになった旅館の一室で、セルゲイ・ソコワスキー少佐は横たわっていた。一日目は徹夜、二日目は不眠。三日目の昼過ぎ、精神より先に肉体が根を上げて束の間の休息を求めたため、宿に戻って仮眠を取っていた。  古い日本旅館の薄っぺらい扉に、防音機能など求めようがない。  廊下の音は筒抜けで、ソコワスキーは人の話し声で目が覚めた。 「――昨日も、ほとんど寝ていない様子だった。もう少し後で起こしても、いいんじゃないですか?」  ヤコブソン軍曹のものだと、ソコワスキーはすぐに分かった。それに答えたのは、アカマツ少尉の声だ。 「二時間で起こせって、言われとる。起こさんと、後が面倒だ。機嫌を損ねると厄介じゃぞ、あの人は」 「不機嫌なのは、いつものことでしょう」 「…ま、それはそうじゃが」  言いたい放題の部下たちに、ソコワスキーは舌打ちをして布団からはい出る。  それから、扉をたたきつけるように勢いよく開けた。  ちょうどそこに立っていたヤコブソンが、予期していなかった方向からの不意打ちに悲鳴を上げる。ドアの角が額にもろに当たったのだ。負傷した部下を無慈悲に押しのけて、ソコワスキーは固まっているアカマツたちを睥睨した。 「――五分後に全員、下に集合しろ」  それだけ言うと、再び部屋へ戻り身支度を始めた。  …井戸の中に浮いている着物を目にした時、ソコワスキーは限りなく最悪に近い結末を迎えたと思った。  田宮正一の妻、千代は、田宮と彼の組織した「尽忠報国隊」の動向を、ソコワスキーの元へ送り続けていた。妻の裏切りを知った田宮が、彼女を殺した後、屋敷に火をつけて逐電したのではないかと、とっさに考えたのだ。  地元警察の警官たちが尽忠報国隊のメンバーを逮捕すべく、急ぎ彼らの自宅へ向かったところ、すでに姿をくらました後だったことも、それを裏づけていた。  ところが、である。  炎が屋敷を焼き尽くし、やっと鎮火した翌日。井戸から苦労して引き上げられたのは田宮正一の死体であった。  この予想外の展開に、地元警察もソコワスキーたちも、開いた口がふさがらなかった。 「何がなんだか、さっぱり分からん。どうして、田宮正一が? 仲間割れでも起こったのか?」  その後、屋敷の敷地から外へつながる藪の中から、二組の大きさが異なる足跡が見つかった。また、井戸の近くに落ちていた旅行カバンには、千代の所持品と見られる着物や貴金属、それに通帳が入っていた。  だが、これらの手がかりは、警官たちをより一層混乱させるばかりだった。  足跡の一つは小ぶりで、子どもか女性のものと推測された。千代のものとも思われたが、彼女が誰かと共謀して、夫を計画的に殺害したのなら、大事な財産をつめたカバンを庭に残していくのは、いかにも不可解だった。  結論が得られぬまま、地元警察は屋敷の使用人たちに対する事情聴取を開始する。  その場に、ソコワスキーも同席した。警官たちは、アメリカ人の少佐たちに宿に戻って休息を取るよう強く勧めたが、ソコワスキーははねつけて我を通した。  下男や女中たちから話を聞く内に、当日、屋敷で何が起こっていたかが徐々に明らかになった。その内容は焦燥と苛立ちを抱えるソコワスキーの気分を、さらに悪くするものだった。  田宮正一は、尽忠報国隊のメンバーをたびたび屋敷に招いて、天皇誘拐の計画を進めていた。その密談のたびに千代が部屋の外に立ち、気配を殺して聞き耳を立てていることに、信吾という初老の下男が気づいた。信吾はそのことを、主人の耳へ入れた。 「旦那さまは、奥さまが客の誰かに懸想しているのではと、疑ったようでございます」  ソコワスキーは苦虫をかんだ顔になる。いうまでもなく、千代が盗み聞きをしていたのは誘拐計画を対敵諜報部隊(C I C)に伝えるためだ。それが目撃された上に、あろうことか田宮の嫉妬まじりの疑念をかき立ててしまったのだ。  そしてついに、メンバーの一人が屋敷にいる最中、田宮は妻に不貞の疑惑を問いただしに行った。  

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