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第16章⑮
夫婦の部屋で何があったか、使用人たちは語りたがらなかった。
彼らは仕事に打ち込むふりをして、息をひそめて成り行きをうかがっていた。若い女中を問いつめ、ようやく明らかになったのは、千代の悲鳴や争う音が聞こえてきたこと、さらに客人が仲裁に入ったらしいことだった。
客が帰った後、田宮は三十分ほどずっと電話をかけていた。自分たちが近々、逮捕されると悟って、仲間に逃走をうながしたのではと、推測された。電話を終えると、田宮は使用人たちに数日、保養の旅に出ると伝えた。急なことで、しかも夜に出立すると言われた女中たちは、急いで支度を始めた。
一人が荷物をつめ、残りは早めの夕食の準備をすすめる。
それがちょうど終わろうかという時に、あの火事が起こったのだ。
「あまりに火の回りが早くて。消すのを早々にあきらめて、逃げ出す以外にありませんでした」
おどおどと話す信吾に、警官が問いただす。
「田宮正一や千代の姿を、火事の前後で見かけたか?」
「……いえ、覚えていません」
「主人の安否が、気にならなかったのか?」
警官のあきれた口調に、初老の下男は首をすくめた。
「旦那さまも奥さまも、火事が起こってすぐに逃げ出したとばかり思っていたんです。外に出ると、すぐに村の人間でごった返すようになりましたし…」
それまで沈黙を保っていたソコワスキーが、老人の言葉を聞いて初めて口を挟んだ。
「ウソを吐くな」
ツララのような、冷たく尖った視線で老人を突き刺す。
通訳として隣に立つアカマツは上司の怒りを嗅ぎとり、肝が冷えた。
「あの火事の時、お前は確かにこう言った。田宮千代は、井戸の中にいるんじゃないか、とーー田宮正一が妻を井戸に落として殺すつもりだと、薄々、気づいていたんだろう。それなのに、見て見ぬふりをした。もしも田宮千代が死んでいたら、立派な殺人幇助だ」
アカマツによって訳された日本語を聞いて、信吾は青ざめてうつむいた。
「…あたしは、ただの下男ですよ。旦那さまに逆らうなんて、できるわけないじゃないですか。あんまり、いじめんでくださいよ……」
哀れっぽい口調で、老人は同情を引こうとする。
アカマツは肩をすくめ、自分の上司を振り返った。
「――自分の行いを、今は悔いているみたいです」
下男の見えすいた言い訳を、アカマツはあえて翻訳しなかった。
伝えても、ソコワスキーの怒りにさら油を注ぐだけなのは、目に見えていた。
対敵諜報部隊 の少佐は、指先ほどの同情も哀れみも示さず、下男に言った。
「最後に田宮千代を見たのはいつだ?」
客が帰る時に、千代の部屋で倒れているのを見たのが最後だと、信吾は答えた。
千代が息をしていたかどうか、確証はなかった。
使用人たちへの聴取が進む間にも、近隣の駅や道路に非常線が張られ、逃走した尽忠報告隊のメンバーの捜索が行われた。と同時に、焼け落ちた屋敷の現場検証が始まる。
炭化した柱や梁の下から、田宮千代の遺体が見つかるのではないかーーそう考えた捜査官もいた。だが、幸か不幸か、千代の姿はどこからも現れなかった。
かわりに、興味深いものが田宮の居室跡から発見された。
それは、大人の腰の高さほどもある耐火金庫だった。
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