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第16章⑯
「――業者を呼んで開けるにせよ、強引に破壊するにせよ、まずは温度が下がるのを待たんといけません。開けられるのは、明日以降ですね」
そう言われて、すでに丸一日が経過した。
旅館から田宮の屋敷跡へやって来たソコワスキーは、いまだに沈黙を続ける金属の箱を前に、いまいましげに目をすがめた。
「この感じですと、もうちょっとで開くと思いますから」
解錠のために呼ばれた鍵屋の男が、揺るぎない口調で受けおう。
ただし、その台詞も三度目となると、いい加減、信用を置けなくなってくる。
「まどろっこしい。いっそ、工具で叩き壊したらどうだ?」
半白髪の少佐は、不機嫌に言う。
「槌とかノコギリとか、あるだろう」
「まあ、もう少し待ってやりましょう」
アカマツがなだめる。彼のすすめもあり、ソコワスキーたちは暑さをしのぐために、焼け残ったイチョウの木陰に入った。
多少、涼しくはなったが、ソコワスキーの苛立ちは解消されなかった。理由はいくつかある。まずは地元警察の態度だ。ソコワスキーを含む対敵情報部隊 の一行が残留することを受け入れてはいたが、決して積極的なものではない。できるだけ早く、荷物をまとめて東京へ引き上げてくれないかと、思っているのが見え見えだった。
さらに捜査自体、順調に進んでいるとは言い難い。尽忠報国隊のメンバーはうまく潜伏したようで、いまだに逮捕できた者はいない。また田宮千代の生死や行方についても、新しい情報は上がってきていなかった。
ただ、まったく暗礁に乗り上げたと言う訳でもない。
たとえば昨日、警察署で尽忠報国隊の面々の資料を見ていた時、ヤコブソンが一人の写真を指差して意外なことを言った。
「この首に傷がある男! ここに到着した時、駅前で見かけました」
「! 確かか?」
「傷の位置と形が全く同じです。間違いありません」
ヤコブソンはカメラ・アイの持ち主だ。一度、目にしたものは写真のように鮮明に記憶が残り続ける。ソコワスキーは大男のその目に関してだけは、信頼していた。
ソコワスキーはその場で、ヤコブソンに男の服装や持ち物を列挙させた。さらに日本人の警官に確認したところ、男が火事の起こったその日に、田宮の屋敷を一人で訪れていたことも明らかになった。
戦中、陸軍の航空兵だったというその男は、居候していた親戚宅に書き置きを残して、姿をくらませていた。その後の足取りはつかめていなかったが、これで少なくとも駅へ向かったことは明らかになった。さらに、駅へ向かったなら列車に乗っただろう、と言うことで、駅員に聞き込みをすべく、警察官たちはまもなく駅へ向かった。
そして幸運にも、切符販売口にいた係員が、男がどこ行きの切符を買ったかを覚えていた。目立つ首の傷もさることながら、男が行き先を紙に書いて渡したことが印象に残って、覚えていたのである。
男が下車したと考えられる駅には、すでに今朝から地元警察の人間が向かっている。
そこで再度、聞き込みを行い、行方を追う予定であった。
金庫はまだ開かない。
イチョウの幹を背に、ソコワスキーはスッキリしない頭で、改めて自分の今の立場を考えた。
そして、考えれば考えるほど、自分がここに残る必要のなさに気づかされた。
なるほど、田宮は不可解な死に方をした。しかし、別の見方をすれば、エンペラー 誘拐計画を推し進めていた、一番の中心人物が消えたのだ。残るメンバーも警察に追われる身で、うかうか表に出てくることもできない。
明日にはエンペラー は東京を経ち、東北へ巡幸に向かう。今の状況では、メンバーが九州からそこへ行くことすら困難であろう。
あらゆる状況が、田宮の立てた誘拐計画――詳細は不明のままだがーーが、頓挫したことを示している。つまり、ソコワスキーがはるばる九州まで出向いた目的は、一応は達せられたということだ。となれば、あとは地元警察に任せればいい。そして、もしメンバーが逮捕されれば、この区域を担当する対敵諜報部隊支部に。尋問を依頼すれば事足りる。
むしろ東京に戻って、巣鴨プリズンで発生した事件の捜査に加わった方が、まだ有意義な貢献ができると思えた。昨日、参謀第二部のW将軍に電話で現状報告を行った時も、婉曲的にそうすべきであることを仄めかされた。
人手が足りない。ソコワスキーらの力が必要だ、と。
それを断り、言い訳を並べて数日の滞在猶予を引き出したのは、他ならぬソコワスキー自身である。どうして、そこまでして残ろうとするのかーー。
「――やはり、田宮千代のことが気がかりですか?」
ソコワスキーはそれを聞き、発言者をジロリとにらんだ。にらまれたヤコブソンは怯えた牛のように首をすくめる。それでも、なお続けた。
「彼女。きっと生きていますよ」
「…どうして、そう言い切れる? 藪に足跡が残っていたからか?」
「それもありますが。人間を一人、隠すのにはそれなりに手間がいるはずです。屋敷や周辺をこれだけ探して見つからないなら、やっぱり生きて、自分の足で遠くへ逃げたと考えた方がいいんじゃないですかね」
ソコワスキーはそれに対し、イエスともノーとも言わなかった。
ただ、ヤコブソンの意見には筋が通っているとは思った。仮に田宮正一が千代を殺したとして、その亡骸を遠くへ遺棄する時間的余裕はなかったはずだ。隠匿できる場所は、屋敷の敷地内か、せいぜい裏山くらいだろう。
ソコワスキーは焼け跡を眺めた。ヤコブソンの指摘は腹立たしいが、的外れではない。
結局、自分がここにとどまっている最大の理由は、田宮千代の存在に他ならなかった。
自らの意思で夫の所業を密告し続けたとはいえ、彼女を内通者として利用し、命の危険にさらしてしまったその責任は、ソコワスキーにある。
ーー頼むから、生きていてほしい。
それがかなわないとしても、彼女を見つけるまで、ソコワスキーは東京に戻る気はなかった。
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