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第16章⑱

 翌朝、クリアウォーターはU機関に出勤すると、そのまますぐにサンダースが運転する車で、W将軍たちが待つ旧日本郵船ビルへと向かった。  そして二時間にわたる話し合いの後、クリアウォーターが次になすべきことが決まった。  大阪への出張である。そこには、金本勇が少年時代を過ごした朝鮮人の集住地区があり、また『はなどり隊』の生存者のひとりが、現在も住んでいる。金本勇の実像に迫るため、足を伸ばす価値は十分にあった。  クリアウォーターはW将軍の前から退出すると、列車の切符を買うために直接、東京駅へ赴いた。 「――今からなら、午後に出発して深夜に到着する列車と、夜に出発して翌朝到着する列車があります」  時刻表を確かめながら、カウンターの係員が告げる。 「どちらになさいますか?」  クリアウォーターは少し考えた。天気予報では特に荒天の予報は出ていないが、できる限り早く現地に入っておきたかった。加えて、夜行列車に乗ると、どうしても疲れが残りやすい。体力を温存しておくに、越したことはなかった。 「夕方出発の列車で頼む。大人二枚だ」 「かしこまりました」  切符が手配されるのを待つ間、クリアウォーターは待合室からU機関の翻訳業務室へ電話をかけた。 「――というわけで。今回の出張にカトウ軍曹を連れて行きたい。彼に聞いて問題なければ、準備のために早退させてやってくれ」 「分かりました」  電話口でニイガタが答え、続けて言った。 「それから、『はなどり隊』の元搭乗員に対する尋問について、対敵諜報部隊(C I C)の大阪支部から回答がきました。明日、問題なく行えるとのことです」 「よかった。助かる」 「あと少佐が不在の間に、『やまと新聞』の佐野記者から、電話がありました。また、かけ直すと言っていましたが…」  少し前に、クリアウォーターは佐野にある調査を依頼していた。戦中、小脇順右が書いた戦意高揚の記事を、なぜ民間の新聞社が掲載したか、その背景を探らせていたのだ。 「電話がかかってきたのは、何時ごろのことだい?」 「確か、十時くらいだったと思います」  クリアウォーターは待合室にかかった時計を見上げた。  今日から、エンペラー(天皇)が東北巡幸のために、東京を離れる。  佐野はその取材のため、現地へ向かうと言っていた。もし、東京駅から電話したのだとすれば、今頃は移動する列車の中だろう。 ――どうも、すれ違いになってしまったようだ。  けれども、ありがたいことに佐野は抜け目がなかった。  用意が行き届いた記者は、前日のうちに調査結果を書面にして、U機関あてに送ってくれていた。そのおかげで自分の仕事場に戻ったクリアウォーターは、軽食を取りながら佐野が調べ上げたことを知ることができた。 〈紅毛緑眼の少佐さんへ〉  クリアウォーターに宛てた書簡は、その書き出しから始まっていた。 〈ーー「やまと新聞」の中で、小脇順右元少佐と戦前に面識があった者たちに、話を聞いて回りました。彼らが言ったことをまとめると、大体、次のようなことらしいです。  小脇は日本とアメリカが開戦する前年ごろから、大本営報道部員という立場を利用して、計画的に各新聞社に対して圧力をかけていったそうです。少佐さんなら、戦中に、日本で新聞や雑誌の発行に関する、様々な法令が発布されたことは、お聞きになったことがあるでしょう。それ以前にも、出版物に対する検閲と発禁は行われていました。けれども「国家総動員法」を革切りに各種法令で規制を加えられていく中で、日本の新聞は、完全に軍の前に屈服していきました。  たとえば「新聞用紙供給制限令」は、新聞を発行するのに必要な紙の量を、お上の裁量で決められるという法令です。たとえば、軍が気に入らない記事を載せようとする新聞社があれば、そもそも紙の割り当てをしないということさえ、極論すれば可能でした。小脇も、気に入らぬ記者に対してしばしば、『お前のところに紙をやらんぞ』と言って恫喝したそうです。そんな相手に、逆らうことができず、やがて増長していった小脇に言われるまま、紙面に彼が書いた原稿を載せざるを得なくなったと、言っていました〉  クリアウォーターはコーヒーを飲んで、紙をめくった。 〈――で、ここからはぼくの意見ですが〉  手書きの文字に合わせて、佐野の肉声がーー関西訛りの声が聞こえてくるような気がした。 〈話をしてくれた先輩も同輩も後輩も、小脇元少佐に全面的に責任を押しつけておりました。  けれどもぼくに言わせれば、罪科の一半は、新聞社側の人間にあります。  そもそも新聞の役割って、なんでしょう? 政府や軍がついた嘘を暴いて、「それは嘘や」って書くのが新聞です。政府や軍が国民を巻き込んで、ロクでもない方向に突き進もうとする時に、「それはあかん」と書くのが新聞だと、ぼくは思います。  それなのに、知らず知らずのうちに取り込まれて、なあなあの関係になって、果たすべき役割を放棄してしまいました。  あまりに、情けないことです。ペンをとって、戦うべき時に戦わず、軍の下請けみたいになってしまった。恥ずかしいと思いますし、その恥ずかしい人間には、ぼくも含まれています。植字に回された後、ぼくは土に潜った臆病なモグラと同じでした。引きこもって、現場から外された失意を闘志でなく自己憐憫に変えて、戦うことをやめてしまったんですからーー〉  クリアウォーターはコーヒーがぬるくなるのにもかまわず、読み進める。  やがて話題は再び、小脇のことに移った。 〈西多摩と浜松の殺人現場に、同じような血文字が残っていたと気づいた後、実は、ぼくなりに小脇順右元少佐と河内作治元大佐との関係を調べていたんです〉

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