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第16章⑳

「――東さん。ほんの少しでいいから、待って…」  千代の声に、荒い息遣いが混じる。山道を並んで歩いていた青年――東はいらだちを覚えながらも、足を止めた。 「お願い。ちょっと、休ませて」  そう言うなり、彼女は路傍にあった石のそばにずるずると座り込んでしまった。  先刻から、ずっとこの調子だ。十分歩いては、同じだけ休むことを繰り返している。出発した時には今日中に目的地へたどり着けるかと思ったが、この調子では今晩もどこかの(そま)小屋で休むことになりそうだ。それさえ見つからなければ、野宿だ。  東は仕方なく荷物を下ろすと、座り込む千代に水筒を渡す。彼女はありがたそうに受け取って、数口飲んだ。  千代の歩みの遅さには腹が立つ。その一方で、気の毒なことをしているという後ろめたさも感じていた。  三日前。田宮の屋敷に火をつけ、千代を連れ出した時、彼女は夫の死を目撃した直後で、ショック状態にあった。だが当然のように、時間が経つと徐々に正気を取り戻し始めた。  千代は、GHQに密告を行っていた。それに東たちにとって不都合なことを知り過ぎている。  彼女に、警察へ駆け込まれるわけにはいかなかった。  夜明けを迎える頃、東は地面に棒で脅し文句を書いて、くたびれ切った千代に見せた。 〈逃げたら、殺す〉  それから精一杯、恐ろしく見えそうな表情をつくり、持っていた小刀を示した。  千代の顔から血の気が引いたところを見ると、十分に効果はあったようだ。  田宮の屋敷から逃亡した後、東と千代は全ての行程を徒歩で移動していた。逃げた日の夜は、すでに目的地へ向かう列車がなかった。そして翌日になると、駅や線路沿いの街に、警察官が雨後のタケノコのように現れ始めた。  警官たちが二人を探しているのは、火を見るより明らかだった。  東はなるたけ人目を避け、必要最低限の食べ物と水を補給しながら移動を続けた。見つかるわけにはいかない。自分が捕まれば、仲間たちに迷惑をかける。  計画を台無しにするわけにいかなかった。  この追い詰められた状況の元凶となった女の横に、東はかがみ込む。青年と目があった千代は、慣れた仕草で左の手のひらを差し出す。その上に、東は指で字を綴った。 〈ア・ル・ケ・ル・カ〉  千代は恨みがましい目つきを東に向ける。一瞬、泣かれるのではないかと思って青年は焦った。 「…がんばりますよ。歩けば、いいんでしょ!」  憔悴した顔で、やけっぱち気味に千代は言った。それから、草履ばきの足で再び歩き出した。  千代との意志の疎通は当初、いちばんの問題だった。昼間はまだしも、夜になると紙や地面に書いた字は明かりなしでは読めなくなる。  手のひらに文字を書くという妙案を思いついたのは、千代だった。  もっとも、東本人はその方法に最初は若干、気後れした。小学校を卒業してこの方、家族以外の女性の手に触れた経験が、ほとんどなかったからだ。結局、この方法がいちばん早く言いたいことを伝えられると、分かったのだがーー。

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