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第16章㉑

 …東の横で歩く千代は、青年がどこへ向かっているか、すでに見当がついていた。  そして、そのことに困惑していた。 ――田宮は死んだのに。この人はまだ、誘拐の計画を諦めていないの?   千代は取るべき行動を決められずにいた。本当は隙を見て逃げ出し、警察へ行くべきだと分かっている。だが、その衝動にかられるたびに、青年が示した脅し文句が頭をかすめた。 ――本当に自分を殺す気だろうか。一度は、命を救ってくれたのに。  それでも、脅してきた時の東の表情は本気に見えた。逃亡を実行に移すのは、あまりに危険が大きすぎる。 ――それに、もし私が警察に駆け込めば、この人は捕まることになる。  千代の覚えた躊躇いは、余人には理解しがたいものだろう。自分を脅迫して連れ回す相手が逮捕されることを、彼女は心配していた。  さらに田宮が死んだ事実そのものを、千代はまだうまく受け入れずにいた。  クズの夫が、自分の前からいなくなる日を千代は心待ちにしていた。しかし、それは夫が警察官に手錠をかけられ、無様に連れていかれるという形でだった。  井戸に落ちて溺れ死ぬと言うのは、完全に想定の範疇を超えている。  しかも田宮がそうなった原因の何割かは、確実に千代にあった。  仮に田宮が千代を殺そうとしていた点を、警察に主張したとしてーー果たして、正当防衛だったと認められるだろうか?   考えれば考えるほど、千代の足はますます警察から遠ざかるのだった。  その足も、すでに棒のようになってきている。 ーーこんなに歩いたのは、いつぶりかしら。  一日目から、足裏にいくつもマメができていた。夜になって、東が潰して手当てしてくれたが、それでも痛いものは痛い。  千代はため息をつき、緑の濃い山々を眺めた。  一度か二度、遠くに人の姿を見かけた以外、今朝からずっと東と二人きりだ。周りから聞こえるのは、セミの声ばかり。この世界に、自分と青年だけしかいないような、そんな感覚に陥ってくる。  田宮の屋敷で起こった一連の出来事が、ひどく昔のことに感じられた。 「…いっそ、このまま二人で雲隠れしません?」  千代は足を止め、ふいにそんなことを言った。   東が困惑するのが、表情で伝わる。何を言っているんだ、この女、といったところか。  その顔を見て千代は思った。  やっぱりこの人、根からの悪い人じゃないわ。ただ、若くて不器用なだけ。  特攻隊員として会った時から、変わっていない。 「私、料理はうまいんです。元々、愛想だって悪い方じゃない。博多とか八幡とか、そんなところで働いて、お金貯めて、小さいお店を開いて……ああ。あのクソ男と結婚させられる前はそんな夢を持っていた時も、あったんですよねーーねえ、東さん。田宮の妄想と心中する必要なんてない。それより私と一緒に人生、やり直してみませんか?」  一息に言って、千代は東の反応を待った。  残念ながら、口のきけぬ青年から前向きな反応は得られなかった。 〈ダ・マ・ッ・テ・ア・ル・ケ〉  東はむすっとした表情で、千代の手のひらにそれだけ書きつけた。

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