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第16章㉓

 目をみはるクリアウォーターに、ウィンズロウは肩をすくめた。 「過大な期待は抱かないで。カナモトについての記述は、ごく一部分だから。メモの大半は、そこの飛行隊長だったクロキ・エイヤという人物のことよ」 「…それでも助かる」  本心から、クリアウォーターは言った。  カナモトの人物像に迫るための情報は、まだまだ足りていない。どんな零細なものでも、ありがたかった。 「ありがとう、エイモス」 「どういたしまして。あとで、ちゃんと返してね。その聞き取り、ワタシにとっては特に思い入れが深いものだから…」  ウィンズロウがさらに言葉を重ねようとした時だ。正枝がカバンを手に二人のところへ戻ってきた。クリアウォーターが、彼女の方へ顔を向ける。  正枝に気を取られたことで、クリアウォーターは元恋人への注意をわずかに怠ってしまった。  …ウィンズロウとしても、直前までそんなことをするつもりは毛頭なかった。  しかし、不意に向きを変えたクリアウォーターの横顔が、コンマ何秒かの間、別の人間のものと重なった。  ウィンズロウが最後まで手を出さなかった男――P-51のパイロットだったヴィンセント・E・グラハム少佐に。  半歩、前に出ただけで、ウィンズロウはあっけないくらいに簡単に、クリアウォーターの唇を奪っていた。  リールから切り落とされた映画のフィルムみたいに、その場の時間が止まった。たちの悪い酒を含んだ時のような後ろめたい陶酔と酩酊が、クリアウォーターの脳髄を駆け抜ける。  数秒後。理性を取り戻した赤毛の少佐は、急ぎウィンズロウを引き離した。  二人のそばで、正枝が目と口をあんぐりと開けている。明治生まれのこの女性にとって、男女の口づけすら、人前では、はばかられる行為だ。男同士のそれは、あまりに衝撃が強かった。  ばつの悪い思いをするクリアウォーターに、ウィンズロウは何事もなかったかのように笑いかけた。 「急ぐんでしょ。じゃあ、ワタシはこれで。あ、そうそう! 実はワタシも明日、大阪の伊丹に飛ぶのよ。もし向こうで時間があったら、飛行場に電話をちょうだいね」  手をひらひらと振って、パイロットの大尉はきびすを返す。  門へ向かって歩き出そうとした時、ウィンズロウは小径に立つ人物に初めて気づいた。  ほぼ同時に、クリアウォーターも気づいてしまった。  おそらく、荷物を運ぶ手伝いをしようと思って、来たのだろう。  正枝とは別の理由で、ジョージ・アキラ・カトウ軍曹が彫像と化したように、その場に立ちつくしていた。  東京から大阪まで、列車で約十時間弱。  クリアウォーターにとって、今回の旅は人生でいちばんつらく、堪えるものとなった。  精神的に。 「――頼む。少しでいいから、説明させてくれ……」 「聞きたくないです」  発せられたカトウの返事は、低く、小さく、列車の騒音にかき消されて、ほとんど聞き取れないくらいだった。 「弁明も、弁解も、見苦しい言い訳も。今は何一つ、聞きたくないです」  それだけ言って、カトウは窓の方へ顔をそむけた。  切れ長の黒い瞳は、分厚い霜が降りている。もし連れ合いに裏切られた雪女がいたなら、こんな目をするのかもしれない。  カトウの周囲だけ、季節が半年くらい進んで、真冬に突入したようにさえ思えた。  クリアウォーターは、カトウに機嫌を直してもらう試みを、早々に放棄した。  得意の弁舌も、全く役に立たない。ここまで心を閉ざし、完全拒否の態度を取るカトウを目にするのは、はじめてのことだった。 「…すまない」  クリアウォーターは言った。もはや、できることはひとつ。  誠心誠意、自分の行いを謝って、恋人が許してくれるのを待つだけだ。  そう考えて、クリアウォーターの心に暗雲がたちこめた。  明日はおろか、果たして数日以内にそれが実現するのか、まったくもって予測が立たなかった。

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