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挿章 カナモト
列車がホームへ入ってくる振動で、俺はビクリと身体を震わせた。
信じられない。疲れと気のゆるみがあったとはいえ、居眠りをしていた。ほんの数分とはいえ、その間、完全に無防備だったわけだ。追われ身の逃亡者に、ふさわしい行いではなかった。
俺は周囲をそっとうかがった。到着する列車に乗る客たちが、三々五々に集まって来ている。しかし昼間に比べれば、駅のホームはずっと閑散としていた。深夜という時間帯を考えれば、まあ当然だろう。
少し離れたところでは、駅員が緩慢な動作で見回りを兼ねた清掃を行なっていた。
俺のいるベンチの前を通った時も、景色の一部とみなして、ろくに目もくれない。東京で発生した事件のことを知らないのか、あるいは知っていたとしても、犯人が目の前にいるとは夢にも思っていないようだ。駅員の態度に、ひとまず俺は安心した。
すでに慣れ親しんだ牧師の扮装に、俺は完全に別れを告げていた。ひげを剃り、髪型も変え、顔にもいくらか手を加えた。女の化粧道具というやつは、なかなか侮れない。逃走中に盗んだ着物に着がえて、鏡をのぞきこむと、もうそこに牧師の痕跡を見出すことはできなかった。
俺はその姿で、堂々と品川駅から列車に乗った。
分かっている。変装に関して、俺はしょせん素人だ。よくよく見れば、不自然な部分も相当残っている。しかし、群衆の中に紛れ込めば、まず見破られない自信はあった。
そして実際に、大きな問題もなくこの場所にーー大阪駅のホームのベンチへ、たどり着いた。
列車で何度か、隣席の人間に話しかけられはした。そのたびに少しばかり緊張したが、一度として逃亡犯の疑いをかけられたことはなかった。
東京から大阪にたどり着いた後、俺は一度そこで下車した。
いまいましいことに、巣鴨プリズンからは、ほとんど身一つで逃げ出す羽目になった。持っている武器はといえば、拳銃と数発の銃弾、軍用ナイフだけ。戦うには少々、心細い。
もちろん俺の心配は、杞憂に終わるかもしれない。目的地まで、すでに半分近い旅程を無事に消化した。残り半分も、何事もなく終わる確率が高い。
それでも、俺は武装をきちんと整え直す方を選んだ。
計画を進める上で、必要だった様々な品物を大阪の密売人から手に入れた。金か、あるいは相手の要求を叶えれば、必要なものは大概、手に入る。
今回も、急に来訪した「顔なじみ」のために、一日で必要なものを揃えてくれた。
そして、用事が済んだ俺は再びホームのベンチへ舞い戻った。
乗るつもりの列車は、この後にやって来るはずである。
到着した列車から、乗客が次々と降りてくる。俺は特に意味もなく、その流れを眺めていた。真夜中ということもあり、客はどれもこれも疲れて、くすんで見える……。
その霞んだ人間たちの中に、鮮やかな朱髪を見出した瞬間、俺はひっくり返りそうになった。
「……一体、何の冗談だ?」
口から思わず、そんな悪態がもれた。
間違いなかった。鬼百合のような派手な色の髪。緑色の目。大きめの口。一八〇㎝は超えている体躯ーー。巣鴨で俺を捕まえようとした、あのアメリカ人将校だった。
しかも、こちらに歩いてくる。
この時、俺は東京を離れて以来、最大級の焦りを味わった。
あの男は俺の顔を直接、見ている。勘づかれる可能性があった。
俺はベンチに座ったまま、動けなかった。立ち上がって、身を隠すそぶりをすれば余計に目立つ。とにかく自然体を装って、やり過ごすしかない。
そうやって、近づいてくる朱髪男を密かに観察する内に、俺はすぐに気づいた。
奴はホームにたむろする客のことなど、ろくに見ていない。
緑色の目から放たれる視線はずっと、前方の一点に注がれていた。
「――カトウ! 別に、私のカバンを持っていかなくてもいいんだって……ちょっと。私の言うことに少しでいいから、耳を貸してくれないか……――」
英語で、そんなことをとめどなく口にしていた。
その時、俺の目の前を、貧相な体つきの男が足速に通り過ぎて行った。
着ている軍服と袖の階級章は、この小男がアメリカ陸軍の軍曹であることを示している。だが、陰気そうな顔はどう見ても日本人のものだった。
――日系二世か…?
カトウと呼ばれた男は、腹でも下したような張り詰めた顔つきをしていた。こちらも、ろくに周囲を見ていない。朱髪男の部下とも思われたが、その割に上官の言うことを無視して、どんどん改札へ向かって突き進んでいく。
それからすぐに、例の朱髪が俺の前を通って、去っていった。
二人とも、俺に目もくれず、存在にすら気づいていないようだった。
俺はようやく緊張を解いた。まるで、戦闘機と戦った後のように、数秒の時間がその何十倍にも感じられた。
それからすぐに、疑問が浮かんできた。
――奴ら、大阪に何をしに来たんだ?
俺はほとんど反射で、行動に移った。最悪の敵に気づかれなかったことで、少々、大胆になっていた。
時間はまだある。
少しだけ、あの二人をつけてみようと思った。
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