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第17章① 一九四五年三月
空は季節の移り変わりを教えてくれる。
二月が終わり、三月に入る頃、冬の透徹した群青色にうっすらと黄褐色の霞がかかってくる。その正体は微細な泥の粒子。偏西風に乗って、遥か中国大陸から運ばれてきた黄砂だ。
その黄砂が混じる空に、ジュラルミンの翼を持つ十数機の鳥が飛んでいた。
大日本帝国陸軍において唯一、液冷エンジンを備えた制式戦闘機ーー三式戦闘機「飛燕」だ。
編隊指揮を取るのは「らいちょう隊」の蓮田周作少尉と、そして「はなどり隊」の金本勇曹長である。
直下にある調布飛行場では、黒木栄也大尉が上空を飛行する燕たちを、じっと見守っていた。
「――離陸から編隊を組むまで、まだ時間がかかっていますね」
そばに立つ笠倉孝曹長が、飛行時計を手につぶやく。
「新しく来た搭乗員。一番マシなやつでも、百五十時間でしたっけ。総飛行時間」
「そうだ」
「…どうします?」
「どうもこうもない」
黒木はその大きな瞳で、部下をにらんだ。
「小隊長にくっついて飛べる水準になるまで、ひよっこどもの力を伸ばすしかない。このままじゃ、完全武装のB29に近づくことすらままならん」
黒木の言葉を聞いて、笠倉は頭をかいた。
内心で、またぞろ面倒な仕事だと思う。
それ以上に、ひよっこ達――十分な訓練も積まぬまま、前線に投入される搭乗員達が、いずれ遠くない未来に撃墜されることに、嫌気がさしてくるのだった。
米軍の艦載機の襲来から、間も無く三週間が経とうとしていた。
黒木たちは一時、身を寄せていた西那須飛行場から、すでに調布飛行場へ舞い戻っている。
先の米軍機を相手どった戦闘では、戦隊に多くの死傷者が出た。その穴は一応、補充されたものの、やって来た搭乗員達は、十人の内七、八人までが、かろうじて航空機を飛ばせるくらいの技量しか身につけていない新兵達だった。
しかも、連日の空襲と、そして決定的になりつつある燃料不足のせいで、飛行訓練の時間さえまともに取れなくなりつつある。
ーーどの方向を向いても、頭が痛くなる状況しか見えやしない。
それでも、黒木は地上で行える訓練内容を増やし、工夫しながら、搭乗員たちの技能向上に努めるしかなかった。
高島実巳中将からの直々の指名により、今や黒木は戦隊に属す三つの飛行隊――「はなどり」、「らいちょう」、「べにひわ」の三つの飛行隊の実戦指揮を任されている。
わずか二十四歳の大尉が、四十人近い航空兵たちの生命をあずかって戦うのだ。
他人から傲岸不遜と評される黒木であるが、その事実を考えると時折、空恐ろしくなってくるのだった。
「左手の調子はどうだ、中山?」
訓練を終え地上に戻った後、金本は自分の機付き班長に尋ねた。
金本の飛燕を点検していた中山は、笑って答えた。
「まあまあです。他の整備兵が手助けしてくれるので、そんなに大きな問題はないです」
とはいえ、折れた腕はまだ肩から吊ったままである。顔の傷は塞がったようだが、破れた片耳の鼓膜はまだ治っていない。口で言うほど、不自由を感じていない訳ではないだろう。
「…お前、本当はまだ、入院してなければいけないはずだろう」
「大丈夫ですよ。担当の軍医どのから、退院の許可ももらいましたから。こんな大変な時に、いつまでも休んでなんていられないです」
中山は、銀色に輝く機体を見上げる。
「それに金本曹長どのの機体は、俺自身の手で整備したいので」
「熱意はありがたいが。まずは怪我をきっちり治したらどうだ。今村少尉だって、まだ入院中だぞ」
はなどり隊の副隊長である今村は、艦載機との戦闘の最中に撃墜された。その後、奇跡的に機体を持ち直して、飛行場まで戻ってくることができたが、そこで運が尽きて着陸に失敗した。病院に運ばれた後、レントゲンで肋骨にヒビが見つかったため、それが完治するまで今村は飛行禁止を言い渡されていた。
金本が少々、しつこく言ったからだろう。中山はいい加減、辟易したようだ。
「前に足を機銃で撃たれたのに、勝手に病院を抜け出して各方面から怒られたのは、どなたでしたっけ?」
珍しく、金本をやり込めた。
言葉につまる相手に、中山は言った。
「大難不死 ,必有後祿 ーー大きな災難で死ななければ、必ず後にいいことがあります。それを信じましょう」
それから、小さな巾着を差し出した。
「これ、よかったらもらってください」
中山が巾着の結び目を解くと、現れたのは、赤い糸が結えられた指先ほどの小さな装飾品だった。
「お守りです」中山は言った。
「負傷したことを父に手紙で知らせたら。神戸中の神廟や神社をめぐって、お札やらお守りやら買って持って来たんです。たくさんあるので、一つ差し上げます」
中山の父親が台湾出身の華僑であり、神戸に住んでいることを、金本は前に聞いていた。
中山はツナギのポケットから、金本の手にあるのと寸分違わぬ巾着を取り出した。
「同じものを、俺も持っています。気休めかもしれませんが、それでも持っていてくれたら嬉しいです」
「…分かった。ありがとう」
金本は礼を言って受け取ってから、中山に尋ねた。
「神戸は何度か空襲を受けたが、実家は大丈夫なのか?」
「…今のところは、まだ無事に残っています」
答える中山の表情が、たちまち翳る。
「でも台南にあるうちの本家は、ついこの前の空襲で全部焼けたと知らされました」
「…そうだったのか」
「実は見舞いに来た父に、故郷に戻ることを勧めたんです。でも、本人が神戸に残る決心を固めていて。結局、戻らなかったおかげで、空襲に遭わずに済みました」
中山はため息を吐いて、半ば独り言のように言った。
「内地も、外地も、もう絶対に安全な場所なんて、どこにもないんですね」
中山と別れた後、金本はピストへ戻る道すがら、タバコを吸った。
中山の呟きが、頭の中にこびりついていた。
戦争はいよいよ、軍人だけのものではなくなってきた。アメリカは日本から勝利をもぎ取るために、東京をはじめとする都市とそこに住む民間人まで標的にし始めた。
それがこれから、ますますひどくなる方向へ向かうことは、火を見るよりも明らかであった。
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