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第17章⑥

「――見たか、蓮田のあの面! ハトが豆鉄砲喰らったみたいに、ケッサクだったな」  らいちょう隊のピストを出た後で、黒木は腹を抱えて笑った。反応が完全に、イタズラがうまくいって喜ぶ小学生のそれである。  いたくご機嫌な上官と対照的に、金本の顔は苦々しさで満ちていた。  黒木からイタズラの共犯者になるよう持ちかけられてから、ずっとこの調子である。というか、「そんな子どもじみた真似はよせ」と、もっぱら反対していた。  しかし、 「なら、いいさ。俺ひとりで『らいちょう隊』のピストに行く」  と言い出されては、ついて行かざるを得なかった。もしも蓮田以外の人間に見とがめられた時、誰かが時間を稼いで、女装した大尉を逃す必要があった。  妲妃や褒姒(いずれも古代中国の伝説上の美女)にも引けを取らぬであろう美貌の男は、金本に向かって(うそぶ)いた。 「というか。別に女装するくらい、頼まれれば、してやらんでもなかったんだがな」 「やめてくれ。そもそも、なんで女物の着物を都合よく持っていたんだ?」 「こいつは、俺の母親の形見だ」  黒木は玉虫色の袖をあげて、あっさり言った。 「下宿に置いていたんだが、最近は空襲続きで、どこに爆弾が落ちてもおかしくないだろう。だから、いっぺんに失くしちまわないように、何着か私物に忍ばせて飛行場に持ってきたんだ」  黒木の母親は、女としてはかなり長身だったようだ。背が五尺五寸(約167センチ)をこえる黒木が着ても、丈が足りない様子はなかった。 「前に一度、この着物、着た時も、わりと好評だったぞ」 「……いつ着たんだ?」 「士官学校時代に、新年会の余興でな。あとで禁止されて、それきりになったが」  黒木が言うことには、「公序良俗に反すること甚だしく、著しく風紀を紊乱(びんらん)するゆえに今後一切禁ず」と校長直々のお達しがあったそうだ。  金本が「当然だな」と言うと、黒木は不満そうに口を尖らせた。 「いや、大げさすぎるだろう」  その言葉に、金本はあきれた様子で首を振った。  大げさすぎる? ーーとんでもない。黒木は素の顔でさえ、百人中百人が認める美男子である。それが正月の賑々しい雰囲気の中、着飾り化粧した姿で、むくつけき男どもの前に現れたとしたら――その場が狂乱状態に陥ったのは、想像に余りある。  風紀云々(うんぬん)以前に、治安維持の観点から禁止されて当然だった。  金本は内心、ため息をつく。黒木は自分の顔がいいという自覚はあるが、それが他人に与える威力については、どうも過小評価している節がある。   「というか、お前、さっきからずっと、機嫌が悪いな。蓮田の鼻を明かしてやれたのに、どうした?」  黒木に顔をのぞき込まれ、金本は答えにつまる。  くだらないイタズラは終わった。ホッとするひと息ついていいはずだ。だが、金本の胸のあたりには、ずっとモヤモヤしたものがわだかまって、なかなか消えなかった。  金本は、むすっとした顔で言った。 「他の男をたぶらかすような真似は、これきりにしろ。二度としないでくれ」 「たぶらかすって……え? お前、まさか嫉妬したのか?」 「……」  ご名答。黒木が蓮田と絡んでいた間、金本はずっと両者に腹を立てていた。もし黒木があれ以上、あの場にとどまっていたら無理やり引きずって、撤退させていただろう。  金本の反応を見て、黒木はなぜか悦に入ったように笑った。 「ふうん。そうかよ、フフッ…」  金本は顔をしかめる。黒木について、今までも解釈しがたい言動は多々あった。けれども、この反応は、金本にとって完全に理解不能であった。  黒木は不機嫌な相方の腕をとり、そこにしなだれかかった。  事情を知らぬ人間に目撃されたら、金本がこっそり夜鷹を連れ込んだのかと、勘違いされそうだった。 「ーー俺が惚れてんのはお前だけだよ、蘭洙。サランヘ(愛してる)」  黒木が金本に頬を寄せ、口づける。いつもと違って、白粉の甘い香りと(べに)特有の苦味が、金本の口に残る。  唇を離した後で、黒木がふとつぶやいた。 「…そういや、言ってもらったことないな」 「何を?」 「『愛してる』って。日本語でも朝鮮語でもどっちでもいいから、いっぺんくらい言ってくれよ」 「言えるか!」  金本は吐き捨てた。そんな歯の浮くようなセリフを、面と向かって言える神経は持ち合わせていない。  たとえ、どれほど惚れ込んでいる相手だとしても――恥ずかしくて、できやしない。  その後、「はなどり隊」のピストに戻るまで、黒木がずっと茶化しながら、言えとせがんだが、金本は頑なに拒み通した。

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