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第17章⑦

 翌朝、金本は訓練が始まる前に、自分の『飛燕』の整備班長を探しに行った。中山を見つけると、金本はお守りを黒木に捨てられそうになったことを打ち明けた。 「正直、何が大尉どのの気にさわったのか。俺には、さっぱり分からない」  幸い、中山にもらったお守りは、まだ金本の手にある。しかし、黒木のことだ。機嫌が悪い時に同じことを繰り返さないとも限らなかった。  聞き終えた中山は、金本の方を見つめる。それから、おもむろに口を開いた。 「…黒木大尉どのが気に入らないなら。別のやつを、あとで差し上げます。それでいいですか?」 「ああ…なあ、中山。お前、黒木大尉が怒った原因について、思い当たることあるか?」  折れた左腕が痛むのか。中山は一瞬、何かをこらえるような顔になる。  しかし、すぐに無理をして作り笑いを浮かべた。 「ーーいいえ。俺にもさっぱりです」  その日の午後は曇りがちで、時折、冷たい小雨が地面を濡らした。日暮れごろに雨は上がったが、今度は北北西に向かって強風が吹き始めた。  本来、この日の夜は夜間飛行訓練が予定されていた。しかし、離陸時の危険が大きすぎると判断され、延期となった。  中山に訓練中止を告げ、金本はピストへ戻る。その途上で、すれ違った整備兵の一団がこう言っていたのを、覚えている。 「――明日は陸軍記念日だ。いつもより、少しマシな飯にありつけるかもしれんな」 「酒の一杯でもつくかな?」 「ばーか。白米か、卵があれば(おん)の字だろ――」  ずっと飛行場内で過ごしていると、日付の感覚が麻痺しがちだ。それでも、今年で四十回目を迎える陸軍記念日のことは、誰も忘れてないようだった。  一九〇五年のその日、日本の帝国陸軍はロシア軍との戦闘に決定的に勝利して、奉天への入城を果たした。  まだ寒い、三月十日のことだった。  その夜。十時くらいに警戒警報が鳴ったが、間も無く解除された。出撃も避難の指示もなく、搭乗員たちは明日に備えて、また寝床へ戻る。  それから一時間も経たないうちに、けたたましいサイレンが鳴り始めた。空襲警報だ。 「――防空壕へ退避せよ。繰り返す。搭乗員は直ちに、防空壕へ退避――」  スピーカーががなりたてる中、はなどり隊の隊員たちは、慌ただしく起き上がった。誰かが天井の灯りをつける。しかし、それはたった二つの電球で、しかも黒布で覆われている。まだ慣れていない新兵の中には、足元の不注意で転倒しそうになる者も出た。  松岡が先頭に立って、隊員たちの誘導を始める。飛行服に着がえようとしている者に、笠倉が気づいてその肩をはたいた。 「何してるんだ、東! とっとと、ずらかるぞ」 「…万が一にも、出撃はないんですか?」 「ない、ない。夜で、この強風だ。夜戦部隊でも、飛ぶのが精一杯だろう。無茶な命令が下らないだけ、ありがたいと思っとけ。ほら、行くぞ」  東は不服そうだった。それでも、逆らわずに不満顔のまま、笠倉についていく。  最後に金本と黒木が全員の退去を確認し、指定されている防空壕へ駆け出した。  滑走路のそばを走っている途中で、二人は偶然、逆方向へ向かう男と出くわした。最初は暗くて、それが誰か金本は分からなかった。先に正体に気付いたのは、黒木である。 「蓮田少尉? 貴様、ここで何している?」 「…見物です」  らいちょう隊の搭乗員は、面白くもなさそうに告げる。 「一緒に見たいなら、どうぞ」  そう言い捨てて、蓮田は黒木の脇をすり抜けて、戦隊本部の建物へ走っていく。  一度は蓮田を置き去りにして、黒木は防空壕へ向かいかけた。しかし、あることに気づいて足を止めた。 「…あの男。たしか、両国の川向かいにある深川の出だったはずだ」  戦隊本部は三階建てのコンクリート造りの建物だ。蓮田は今までにも、その屋上へ登ったことがあるようだ。暗かったが、勝手知った様子で、足取りに迷いがない。  金本は黒木と共に、その後を追った。二日前の夜と同じ状況だ。本当なら、蓮田なぞ放っておいて、避難を優先すべきである。しかし、黒木を残して金本一人だけ防空壕へ向かうわけにもいかなかった。  警報のサイレンが鳴り続けている。その騒がしい音でも、黒い空から響いてくるエンジンの轟音はかき消せない。金本は、落ち着かなかった。  飛行場から、そう遠くないところをB29の編隊が飛んでいる。それも、かなり低空だ。  もし今、この調布飛行場を狙って爆弾を落とされたら――金本も黒木も、そして蓮田も一巻の終わりだろう。  そんな不吉な予感を抱えながら、金本は屋上へ続く階段を登った。  そこから、東の方角を望んだ時である。天と地の境目が、滲むような赤で染まっていた。 「……燃えてやがる」黒木がつぶやいた。  調布飛行場から都心まで、直線距離でも二十キロは離れている。それだけ離れているにもかかわらず、はっきりと見てとれた。  あの地平線にともった赤色はーーー未曾有の大火を、示していた。  すぐそばに立つ蓮田が、ひゅっと息を吸う。 「大震災(※1923年の関東大震災のこと)の時、俺は鼻垂れのガキだったが……こいつは、あの時より酷いかもしれん。ちっくしょうが――」  蓮田が炎を睨む。強風が吹き荒れる中、男は野良犬のように吼えた。 「やめろ、やめろ!! 女もガキも、年寄りもいるんだ! 焼くんじゃねえよ…!!」  

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