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第17章⑨

 両国橋を越えた先は、一層凄惨だった。  焼け落ちた国技館は、かろうじてドームの原型を保っていた。骨組みを露わにした姿は、異国の廃城を思わせた。その前を通り過ぎた後、蓮田の要求でトラックは南の深川区へ入った。  深川にいた時間は、長くなかった。  いまだ燻り、火と煙の残滓を残す景色を前に、トラックを降りた蓮田は、立ちつくした。 「――これだけ跡形もなく焼けたら。自分の生まれた家さえ、どこにあったか分からんな」 「せめて近くまで行って、ご家族の安否を確かめますか?」  笠倉の提案への返事は、「必要ない」だった。 「生家にいたのは、年のいった母親だけだ。親父は、何年も前にくたばっている。人からせしめた金で酒を飲むような、どうしようもないクズだったが…生粋の下町っ子だった。こんなろくでもない光景を見ずに済んで、むしろ幸せだ」  傷の走る横顔には、諦念が漂っていた。 「母親は、足が悪かった。十中八九、逃げきれなかっただろう。せめて焼かれる前に煙を吸って、そのまま苦しまずに逝ってくれていたらと、思う」  蓮田がそのまま、トラックに戻りかけた時だ。  彼と、そばに立つ笠倉たち目がけて、石つぶてが飛んできた。笠倉はとっさに見切って避けたが、一つが蓮田の耳のあたりに命中した。  石が飛んできた方向を反射的に見る。視線の先に、全身煤だらけで、まぶたと目を赤く腫らした人間が立っていた。  せいぜい、十四、五歳の少年である。顔は真っ黒だったが、涙が流れたところだけ煤が流れ落ちていた。  笠倉が止める間もなく、蓮田が少年の方へ足を向ける。歩きながら、ベルトに下げていた匕首(あいくち)を抜いたものだから、笠倉は仰天した。  少年は、その場から動かなかった。近づいてくる軍人を、泣きながらにらむ。  その少年の足元に、蓮田は持っていた匕首をほうった。 「――拾え。それで、俺を刺せ」 「……」 「憎いんだろ? 日頃、でかい口ばかり叩いて偉そうにして、肝心な時に、何の役にも立ちやしねえ兵隊が。石ころくらいじゃ、気持ちは晴れんだろ。いっそ、そいつで滅多刺しにしてみろ。少しはスッキリするだろう――おい、笠倉曹長。止めに入るなんて、野暮な真似するなよ」  笠倉は釘をさされたが、無論、聞き入れる気はなかった。蓮田を負傷させる気も、少年に傷害の罪を負わせる気もなかった。  被災者の少年は、蓮田と地面に転がる匕首を交互に見る。  それから、ひどくしゃがれた声で言った。 「……一晩中、泣き叫んで死んでいく人間を山ほど見た。もう、人死(ひとじに)は腹一杯だ。死ぬなら、俺の見てないところで、くたばってくれ」  言い終えると、後ずさって一目散に逃げ出した。  遠ざかっていく少年の後ろ姿を、笠倉は呆然と見送った。  あの子どもは、どうなるのだろうかと、笠倉は痛む頭で考えた。せめて親か、年長の兄弟でも生きていればいいが…。  蓮田のつぶやきが、笠倉の耳に届いた。 「――とことん、救いようがないな。あんなガキにまで、情けをかけられるとはな」 

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