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第17章⑩

 三月九日の夜。より正確には、翌十日の午前零時から三時ごろまで続いた空襲により、帝都の東半分が焼失した。  たった一夜にして十万を数える市民が犠牲となり、さらにその十倍もの人間が家を失ったのである。  そして当たり前のように、厄災はここで終わりはしなかった。  むしろ、低空で夜間に侵入し、焼夷弾を市街地へ集中投下する戦術が成功したことに、アメリカ側の司令官は味を占めたようだ。翌十一日に名古屋に、さらに十三日に大阪に、十六日に神戸に、そして十八日には再び名古屋の市街地を狙って、莫大な量の焼夷弾が投下された。  その度に、千人単位で人命が失われ、人の営みがはぐくまれていた街は、焼け野原と化していった…。  高島実巳中将は、第六航空軍司令部の自らの執務室で、次々と上がってくる被害の報告を黙然と受け入れた。 「――もはや、喉元に刃を突きつけられたも同然だな」  嘆息の混じった呟きを、高島は発する。それを聞いたのは、たまたま部屋に居合わせた上原少佐だけだった。  もの言いたげな上原の表情に気づき、高島は首を振った。 「…残念だが。日本政府が早晩に降伏を選択することはないと、考えた方がいい。むしろ、今は軍人だけではなく、日頃、温厚な市民まで復讐心で猛り狂っている。『アメリカ人を殺せ。皆殺しにしてしまえ』とーー…理性で、もはや勝利は望めないと分かっている。それでも感情がそれを受け入れることを、潔しとしないのだ」 「アメリカは、日本中を好きな時に焼き払うことができます。それでも、沖縄へ来るでしょうか?」 「必ず来る」高島は断言した。 「どれほど空からの攻撃が幅を利かせるようになったとしても、最後には人間がそこを占領し、支配下に置くことで、ようやく『戦いに勝利した』と言える。硫黄島が失陥すれば、次は間違いなく沖縄だ」  がらんとした執務室を高島は見わたす。元より、ものはあまり置いていない。  それらも全て荷造りがすんだ。今頃は列車の貨物室にあって、主人(あるじ)たちより一足先に次の目的地へ向かっているはずだ。  沖縄を防衛するための「天号航空作戦」に着手するため、第六航空軍司令部は福岡へ移転することが、すでに決定していた。  高島と上原も今夜、列車で福岡へ向かう予定だ。 「ーー閣下。失礼ですが、薬はお飲みになりましたか?」 「…あ。忘れていた。よく教えてくれた」  高島は窓辺に足を向ける。高島は狭心症を患っている。その発作を抑えるための薬が入った小瓶を常々、執務室の窓枠に置いていた。  必要な数の錠剤を飲み下す。そのまま、いつものくせで瓶をそこに置こうとして、上原に止められた。 「忘れていったら、一大事です。今、一緒にお持ちください」 「…本当に、よく気がつくな。君は」 「僭越ながら、閣下の奥様から頼まれましたので。どうか、薬だけは忘れないように、と」  それを聞いて高島は苦笑した。  上原がまだ中尉で、そして熊谷飛行学校の教官をつとめていた頃から、高島の妻とは面識がある。職務においてはいざ知らず、私事において時々、ヘマをする夫の身を案じて、特に頼み込んだのだろう。  高島の妻は何日か前に東京を発った。今頃、彼女の甥が暮らす長野に身を落ち着けたはずだ。今まで、高島や周囲のものが何度、疎開を勧めても頑なに首を振らなかった。しかし、先の大空襲の後、夫の強い説得を受け、ついにそれを受け入れた。  高島は、薬の小瓶を軍服のポケットに入れた。  少なくとも、発作を起こさぬよう最低限の努力はすべきであった。    …それから数時間後。  主人が引き払った執務室に、一人の男がするりと忍び込んだ。  大変な時勢にも関わらず、男の革靴は今日も隙なく磨き上げられていた。  誰の許しも得ることなく入室した河内作治大佐は、ゆっくりした足取りで窓へ向かう。そこに薬瓶がないことを確かめると、口髭をふるわせ、いやらしい笑みを浮かべた。 「――高島中将。あなたのような耄碌(もうろく)した老人は、軍に不要などころか、有害だ。いい加減、ご退場いただこう」 

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