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第17章⑪
三月下旬。ついに、硫黄島が陥落した。そして、ほぼ時期を同じくして、沖縄に対するアメリカ軍の上陸作戦が開始されたと、報じられた。
日本の反攻を牽制するためだろう。前後する日にB29による九州の飛行場への爆撃や、関門海峡への機雷の投下が立て続けに行われた。その一方で、三月十日の大空襲の後、米軍は一時的に東京に対する関心を失ったようだ。
硫黄島が陥落したことで、アメリカの目は、今や明らかに沖縄に集中しつつあった。
黒木たちの戦隊は、大空襲から約十日後に、再び出撃した。
アメリカの艦船を標的とした特攻機を援護する、直掩としてだった。浜松沖合にアメリカの機動部隊が集まりつつあるという情報が入り、こちらから奇襲を仕掛けることになったのだ。
特攻機として、二百五十キロ爆弾を抱えた一式戦「隼」が十二機。
その援護に、黒木や金本たちを含む戦隊のほぼ全機が出動し、さらに他の飛行場の戦闘機や、誘導のための四式重爆撃機が動員された。
そして結果はーー空振りに、終わった。
当日の天候不良もあって、アメリカの機動部隊をついに発見できなかった。そのまま夕暮れ時になり、何も戦果もなく、それぞれの所属の飛行場に帰投した。
金本は、自身の「飛燕」を調布飛行場の滑走路へ着陸させた。
いつものように、整備兵の誘導で機体を駐機場へ移動させていく。その時、金本は彼らの様子が、いつもと微妙に異なっていることに気づいた。
何かを、金本に言うわけではない。ただ、皆が皆、妙に金本の方へ視線を向けてくる。
その理由が判明したのは、中山が金本の飛燕に駆け寄ってきた時だ。
「金本曹長どの! お帰りなさい。お疲れのところ、申し訳ないですが、急ぎ来ていただけませんか?」
「どうした?」
「曹長どのを訪ねてこられた方が、いるんです。もう、何時間も待っていて……」
続く中山の言葉を聞いて、金本は飛行眼鏡の下で両目を見開いた。
その訪問者は、飛行場の敷地の外にいた。
彼は一緒に来てくれた同胞の口を借りて、当番の衛兵たちに「金本勇」の親族であることを伝えた。だが、衛兵の態度は冷たく、二人が飛行場に足を踏み入れることを、頑なに認めなかった。
結局、金本が駆けつけるまで、数時間も二人は門のそばで待たされることになった。
もっとも、どちらも気にする素振りも見せない。日本人に横柄な態度を取られることも、すげなくあしらわれることにも、とうの昔に慣れていた。
二人はともに、朝鮮人だった。一人は二十歳ほどの若者で、ワイシャツとズボンという日本人と変わらぬ格好だった。そして、もう一人……六十ほどの老人は、一目でそれと分かる白い伝統的な朝鮮服を着ていた。
着替えもせず、飛行服のままやって来た金本は、老人を一目見て、その場で固まってしまった。
「父さん …?」
金本の呼びかけに、老人がはっと顔を上げる。日本陸軍の飛行服を着た金本を見て、老人の方も、なんとも言えぬ表情を浮かべた。
「……元気そうだな。蘭洙 」
金本の父――金旻基 はそう言って、枯れ枝のような手を息子に差し出した。
父と息子の数年ぶりの再会は、初めから気まずさが漂っていた。
金本は口にこそ出さなかったが、父親が来たことに怒りに似た感情を抱いた。兄の光洙 が起こした事件の後、日本には絶対に来るなと再三、家族に警告していた。いずれも身の安全を慮ってのことだ。
それにも関わらず、父親はよりにもよってアメリカの空襲が激化する中、故郷の咸鏡北道 から釜山に出て、船で下関まで行き、そこから列車を乗り継いで東京まで来た。日本語がほとんど話せないにも関わらず、だ。あまりに無謀すぎる。
旻基に同行する二十歳ほどの青年に、金本は見覚えがあった。
かつて、大阪で暮らしていた時、光洙が訓民正音 を教えていた生徒の一人。朝鮮人の集住地区で、朝鮮服を商っている韓廷鍾 の息子、韓文葵 だ。旻基は東京に来る前に、亡くなった自分の弟、哲基 とそして息子の光洙の足跡を尋ねて、先に大阪に寄った。そこで韓廷鍾の家に招かれて、泊まらせてもらったらしい。
韓廷鍾は裕福ではないが、街の顔役のような存在だ。生前の哲基とも、面識があった。その兄である旻基が朝鮮から出てきて、東京にいる蘭洙――金本を訪ねに行くと聞いて、日本語に不自由のない自分の息子をわざわざ同行させてくれたのだ。
「東京も名古屋も、空襲でえらいことになっているでしょう。大阪も先の空襲で、市の中心がだいぶやられましたから。ご老人が一人で旅するのは、あまりに不安が多いと、親父が俺についていくように言ったんです」
ところが、金本の血縁者ではないという理由で、韓文葵が飛行場に入ることは許されなかった。金本は粘ってみたが、当番兵に「規則なので」とはねつけられては、どうしようもなかった。
すでに日は落ちている。見知らぬ土地に文葵を放り出すことを、金本は申し訳なく思ったし、心配もした。しかし、当人は平然としたもので、
「駅舎で一晩、明かしますよ。なに、夜冷えるとは言っても、凍えるほどの寒さじゃない。ではまた明日、迎えに来ますね」
別れの挨拶をすると、気のいい青年は甲州街道を歩いて駅の方へ去っていった。
その頃になると、金本を訪ねてその父親が来たという話題は、戦隊中に知れ渡っていた。
新参の搭乗員や整備兵の中には、朝鮮服を着た旻基の姿を見かけて、金本が朝鮮人だと初めて知った者も少なくなかった。
金本が父親を連れて仮泊所へ向かっていると、ちょうど黒木が彼らを見つけて近づいてきた。
「今、戦隊本部で聞いたら、空いている部屋があった。鍵ももらってきたから、今日はお前、父親とそこに泊まれ。飯も二人分運ばせる」
そこで黒木は、旻基を安心させるように、目を合わせて言った。
「黒木 と申します 」
黒木の口から流暢な朝鮮語が出たことに、旻基は驚いた。朝鮮の人間が日本語を話すことはあっても、その逆はかなり珍しいことだった。
「遠方から来て、お疲れでしょう。ろくなもてなしもできませんが、どうかゆっくり過ごしてください」
「…世話になります」
日本人の所作の真似だろう。
旻基は自分の息子と変わらぬ年頃の男に、ぎこちなく頭を下げた。
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