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第17章⑫

 靴を脱ぎ、六畳ほどの広さの部屋に、金本は父の旻基(ミンギ)と向かい合わせに座った。 「父さん(アボジ)、寒くない?」 「寒くはない」 「東京まで、ずいぶん遠かっただろう」 「そうだな」 「……どうして来たんだ。あれほど来るなと、言ったのに」  金本は声をひそめる。調布飛行場内で、朝鮮語が分かる人間は金本を除けば黒木くらいだろう。それでも、極力用心することは、もはや金本の第二の本能のようになっていた。 「兄さんが死んで何年も経ってる。だが、そんなこと関係ない。もしも、父さんに何かあったら、俺は……」 「分かっている」  父親にさえぎられ、金本はそれ以上、言えなくなった。  記憶にあるよりも、父は年老いていた。金本が最後に父親に会ったのは、大陸からジャワへの転出する直前の、わずかな休暇の時だ。  その時になってやっと、光洙の遺骨を父親と母親の元へ帰すことができた。  骨壷を前に、父は何も言わなかった。母は泣き崩れた。  長兄の仁洙(インス)は、弟の遺骨が家に戻ったことを正直、喜んでいなかった。弟の犯した罪の(るい)が、自分たちに及ぶことを恐れていた。それでも光洙の位牌を作って、人に知られないよう密かに家廟に祀ることにまでは、反対はしなかった。  金本は父への感情を抑えて聞いた。 「…母さん(オモニ)は元気か? 仁洙兄さんや奥さんや赤ん坊は…」  息子の言葉を聞いて、旻基は肩をふるわせた。 「――ああ、蘭洙。一番、最初に伝えるべきだったな。仁洙の息子は……死んだ」 「……え?」 「風邪をこじらせて、そのまま息を引き取った。本当に、あっという間のことだった」  甥の突然の訃報に、金本は言葉を失った。  死と常に隣り合わせの場所にいてなお、人が死ぬ話を聞かされるのは辛かった。  長兄の仁洙は実は二度、結婚している。  一度目は、金本が小学校に上がるくらいの年のことで、兄はその時数えで二十歳だったはずだ。しかし、結婚して五年経っても子どもができなかったため、結局、最初の妻は離縁されて彼女の実家へ戻された。  その後、迎え入れられた女性との間にも、中々、子宝に恵まれず、ようやく昨年、初めての子が生まれた。  金家の跡取りと目された待望の男児だった。  それが、わずか数ヶ月という短い生涯を終えた。 「『人間万事、塞翁が馬』というが。息子に、孫に、次々と先立たれるのはかなり堪える」  旻基は老け込んだ顔を、金本に向ける。 「蘭洙。お前、赤ん坊におもちゃの船を贈ってくれたな。勝手を承知で、一緒に棺に入れさせてもらった。せめてあの世で遊べればと、お前の母さんが泣いて頼んだから」 「…いいよ。多分、それが一番だ」 「…孫を葬る時、つくづく思い知らされた。人の命数は、天に定められている。だが神ならぬ身で、それをうかがい知ることはできない。死者を前に、生きている者ができることは、ただ嘆くことだけだ――亡くなった者に、その声が届いているという確証などどこにもないのにな」 「……だから、俺が生きている間に会うべきだと思って、来たのか?」  旻基はうなずいた。  金本は、父にかける言葉を、にわかには見つけられなかった。  朝鮮でも日本と同様――いや、日本以上に、女児に比べて男児が露骨に尊ばれる。  しかし、息子も三人目ともなると、ありがたみは薄れる。  長兄に比べて、父親と金本のつながりは明らかに薄い。しかも日本に来た後、父子の絆をはぐくむ機会は、手紙だけに限られていた。  父は恐ろしくなったのかもしれないと、金本は思った。次男に先立たれ、今度は孫。  三男も、いつ命を落としてもおかしくない。劣勢にある日本軍の航空兵なのだからーー。  黙り込む息子に向かって、旻基は言った。 「もうじき、日本は負ける」 「父さん! 滅多なことを…」 「かまわないだろう。朝鮮人は皆、そう思っている。アメリカが日本を滅ぼす。それでようやく、長かった屈辱の時代は終わる。やっと、自分たちの国を取り戻せる」  旻基は皺の刻まれた頬をゆがめた。 「ーー光洙は、愚かなことをした。だが、あの子に手に入らない希望を吹き込んだのは、他でもない。ここにいる愚かな父親だ」  金本は息を止め、父の顔を見つめた。

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