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第17章⑯

 笠倉の願いもむなしく、その日の深夜、空襲警報が鳴り響き、飛行場内のすべての人間が叩き起こされた。  B29の大編隊が、闇に沈む帝都へやって来た。約三週間ぶりのことである。  目標は、これまでにも何度も攻撃を受けた中島飛行機武蔵工場であった。低空で飛ぶ「かもくじら」たちは腹に抱えた爆弾をありったけ落とし、午前四時ごろにようやく去っていった。  そのわずか二日後、再び同規模の編隊が襲来した。  房総半島から侵入し、東京の西側と、さらに川崎、横浜を目標としていたらしい。横浜ではこの時の空襲により、多くの地区で被害が出た。  しかし、どちらも深夜の空襲である。そのため、二度とも黒木たちに出動命令が下ることはなかった。  …それから三日後。  前日に降っていた雨は、明け方近くに止んだ。  ひんやりした空気が残る早朝。手洗い場で金本が顔を洗っていると、そこにたまたま黒木がやって来た。手拭いを下げたのと反対の手に、薄紅色のものをつまんでいる。金本が注意して見ると、それは濡れそぼった桜の花だった。 「昨日の雨で落ちてた。だが、大半は枝に残っている」  黒木は淡く色づいた花弁を、洗い場の水桶の上に浮かべる。 「あと三、四日もしたら、満開だ」 「そういえば、笠倉が言っていた花見の件。どうします?」 「そうだな。あまり大人数でやると、さすがにあちこちから顰蹙(ひんしゅく)を買いそうだから。やるなら、何人かずつ目立たない形でやった方がいい」  黒木は蛇口をひねり、まだ冷たい水を顔にかける。手拭いでふいた時、唇が赤みを帯びる。 「月が出てりゃ、夜桜見物もできるが。満月を過ぎたから、もう難しいだろうな。明かりはもちろん、ご法度だ…――」  その瞬間、ピストのスピーカーがガッと音を立てた。  続けて、唸るような警戒警報が鳴り出した。  金本と黒木は、目を見交わす。互いに、余計なことは言わない。  そのまま示し合わせたように、ピストへ向かって走り出した。  全ての搭乗員が、最速で身支度を整えていく。  すでに先ほど、戦隊長による「出動」の命令が、スピーカーから伝えられていた。ピスト前で点呼を取るのも慌ただしく、めいめい、自分の「飛燕」へ向かって駆け出していく。  早朝であったが、金本の機体はすでに、整備の中山たちが暖機運転を始めていた。おかげで、そのままもたつくことなく、離陸することができた。 〈――『はなどり』、『らいちょう』、『べにひわ』各隊へ。かもくじら百、みやこ北進中。はしご八。たかげたはけ。繰り返す…――〉  地上からの通信が入り、金本は身を引き締める。操縦桿を握る手に知らぬうちに力がこもる。  通信の意味はこうだ。 「『はなどり』、『らいちょう』、『べにひわ』各隊へ。百機のB29が、帝都方面へ向けて北上中。高度八千メートルまで上昇し、邀撃せよ」   〈全員、聞こえたな〉  黒木の声が、無線電話を駆け抜ける。 〈訓練通りにやるぞ。『はなどり』を先頭に各隊、編隊を組め。それから八千メートルまで上がる〉  さらに黒木は続けた。 〈金本曹長。貴様の目が頼りだ。敵よりも先に、必ず向こうを見つけろ〉 〈了解〉  金本は短く答える。操縦桿を引き、編隊を維持したまま、目標高度へ向かって上昇を開始した。    その十五分後。  黒木の小隊に続き、金本の小隊が高度八千メートルへ到達した直後のことだった。  黒木に期待された通り、金本は「はなどり隊」でもっとも視力がよく、索敵能力も高い。おそらく、他隊を含めた戦隊内でもそれは変わらないだろう。  この時も、相模湾上空で明滅する微かな光に、いち早く気づいた。  金本はただちに、黒木に無線で知らせた。 〈こちら、金本。十一時方向にくじら発見。距離二〇〇(フタマルマル)(二十キロメートル)……――〉  報告する間に、金本はわずかに違和感を抱いた。目を凝らす。B29の巨体も、これだけ距離が離れた状態では、まだ米粒ほどの大きさしかない。  しかし、長年の経験で研ぎ澄まされた感覚が、金本の脳内で警報を鳴らした。 「たとえ見えてなくても、見落とすな」と――。 ――何か、いる。くじら以外の何かが……。 〈――どうした金本? もう一度、繰り返せ〉  黒木の声も、わずかにこわばる。金本の態度で、異変を察知したのだ。  この時点でも、なお金本は確信を持てない。  だが、時期を逸しては手遅れになる。それだけは確かだ。  金本は、自分の勘に賭けた。 〈訂正します。十一時方向に、『くじら』と『いわし』――!〉  …金本が黒木と、そして飛燕の搭乗員たちに警告を発していた頃。  十数キロ離れた場所で、少しだけ遅れて、彼らも日本の戦闘機集団の存在に気づいた。 〈――進行方向に敵機発見。ほぼ同高度です。このまま進めば、二分足らずで接触します〉  その報告に、落ち着いた声が応じた。 〈オーケイ。諸君、心の準備はいいか?〉  P51「マスタング」の操縦席で、男は笑う。  心の声に耳を傾けたが、そこに不安はない。身体の内側を満たすのは、これから一戦交えることへの期待と高揚感のみ。  ヴィンセント・E・グラハム少佐は、彼が率いる三十数名の部下たちに語りかけた。 〈君たちはアメリカ陸軍が誇る戦闘飛行隊の中で、もっとも優秀なパイロットだ。ーーおのれを信じろ。陸軍を信じろ。そして、祖国を信じろ。私たちの手で、勝利への道を切り開くんだ! 行くぞ!〉 〈〈〈 了解!!〉〉〉  P51が積む世界最高峰のマリーン・エンジンが、回転数を上げる。  銀翼を翻し、ハクトウワシさながらの動きで、グラハムたちは見つけた獲物たちへと飛びかかっていった。

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