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第17章⑳
それが起こったのは、実際には、墜落から十秒にも満たない時だった。
しかし、笠倉にはその何十倍にも感じられた。
黒煙に包まれた飛燕の操縦席から、人影が飛び出してきた。空と大地の間で、白いきのこ型のものが花開く。落下傘だった。
笠倉は安堵の息を吐いた。もし、東が手の届くところにいたなら、本心から「よくやった」とほめてやっただろう。
しかしその直後、笠倉の目の前で、彼を凍りつかせる光景が展開した。
笠倉を追っていたP51たちが、急に高度を落とした。先頭を飛ぶ敵機が、明確な意図を持って落下傘へ向かっていく。風にまかせて、漂う以外にない東のもとへ――。
「――おい、おい、よせ…!!」
空を舞う風船を狙って撃ち落とすように、先頭のP51が、落下傘めがけて機銃の連射を浴びせた。
〈――しぶといジャップ め。このまま、逃がさん。息の根を止めてやるぞ〉
小隊長のジェンキンス中尉が無線でそう告げてきた時、部下の一人であるヤングハズバンド少尉は、にわかに同意できなかった。
戦闘機パイロットたちの間には、ヨーロッパの騎士道精神に似た暗黙の規範 がある。
落馬し、負傷して動けなくなった者は、もはや敵となり得ない。見逃されるか、場合によっては捕虜にして治療してやる。撃墜され、戦闘機から脱出したパイロットも同じだ。抵抗するすべを持たない相手を、一方的に殺戮することは、決して尊敬される行為ではなかった。
賛同はできない。それでも、ジェンキンスは小隊長だ。黙って、ついていくしかない。
落下傘に接近した時、ヤングハズバンドは気づいた。ぶら下がる日本人パイロットの首に巻かれたマフラーが、真っ赤に染まっている。一瞬、もう死んでいるのではないかと、期待を抱く。
しかし、異常を察したパイロットは、己の身をかばうように弱々しく腕を上げた。まだ生きている。
むなしい抵抗を示す相手を見て、ヤングハズバンドはどうにも彼を撃つ気になれなかった。一緒に飛ぶ小隊の仲間も、同じ思いだったらしい。結局、機銃を撃ったのはジェンキンス一人だけだった。しかも、落下傘に接触して思わぬ事故になるのを恐れて、遠くから撃ったせいで、一発も当たることはなかった。
部下たちが撃たなかったと知って、ジェンキンスは怒りの言葉を浴びせた。
〈お前ら、腑抜けているのか? あのパイロットを見逃せば、また戦闘機に乗って俺たちを殺しに来るんだぞ!〉
ヤングハズバンドは、それを聞いて、なけなしの勇気をふるいおこした。
〈お言葉ですが、中尉。あの男は、負傷しています。とどめを刺す必要は…〉
〈殺せ〉
ジェンキンスは言った。
〈硫黄島で、ジャップ の兵士は負傷しようが、腹に穴を開こうが、お構いなしで死ぬまで立ち向かってきたらしいじゃないか。俺はあそこで、海兵隊にいた弟を亡くしたんだ。奴らは人間じゃない。確実に、息の根を止めるまでやらんと、安心などできん。いいジャップ がいるとしたら、それは死んだジャップ だけだ。分かったか…――〉
突然、無線に雑音が混じった。その直後、最後尾を飛んでいた仲間の裏返った声が、飛び込んできた。
〈敵襲…!〉
ブツっという音と共に、無線が切れる。
ヤングハズバンドは、ギョッとして振り返る。後方はちゃんと警戒していた。二秒前まで、後ろに食らいつく敵機などいなかった。それなのに、仲間のP51は消えていた。
代わりに、敵のトニー が悠然とその空間を占めていた。
驚愕から立ち直れないヤングハズバンドの目の前で、トニー はそのまま、ジェンキンスの機体へ迫った。ほとんど、ぶつかるくらいの距離まで接近する。ジェンキンスが操縦するP51に当たることを恐れ、ヤングハズバンドももう一人のパイロットも咄嗟に撃てなかった。
ジェンキンスが逃げ出すより先に、トニー の機銃が猛然と弾を吐き出した。
P51の胴体と左翼から、炎と黒煙が噴き出す。
落ちるP51の中で、ジェンキンスが吼えるさまが、最後に見えた。
…ヤングハズバンドは気づかなかったが、トニー のパイロットの顔も似たようなものだった。
こめかみに青筋を立て、笠倉は自らの手で葬り去った敵を激しく罵っていた。
「勝負はついただろうが! 機体なくして、抵抗できねえやつを撃つんじゃねえよ、バカヤロー!!」
これほど怒りに駆られたのは、いつぶりか。ひょっとすると、戦闘機乗りになって、初めてのことかもしれない。
空の上で、常に冷静さを保つよう心がけてきたが――あの光景だけは、ダメだった。
敵味方の状況も、自分の行動が危険を招くであろうことも頭から消し飛んで、東を撃った連中を叩きつぶさずにはいられなかった。
そして、そのツケはすぐに回ってきた。
「ちっ…!」
仲間を一気に二機も落とされ、復讐心に駆られたP51たちが、一斉に笠倉を攻撃し始めた。
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