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第17章㉓

 グラハムの視線の先で、トニー(飛燕)がふらつく。  しかし、山肌にぶつかるかと思われた瞬間、体勢を立て直した。翼で木をこすらんばかりの高さだったが、かろうじて山の稜線を越える。  その先で、キラキラと細い帯状の光がきらめいた。  グラハムは名を知らないが、それは多摩川だった。川幅は余裕で十メートルをこえ、しかも左右に川原が続いている。  その川のただ中に、両方の主脚を出した状態でトニー(飛燕)が着水した。  水飛沫が上がる。  足場は最悪。水の抵抗もある。しかし、パイロットの腕が、最後には勝利した。  時速百キロほどで突っ込んだトニー(飛燕)は、まるで水上機が海面に降りるように、綺麗な波の軌跡を残して停止した。  グラハムはその一連の光景を、息をするのも忘れて見入っていた。  部下から入った無線が、彼を現実に引き戻した。 〈少佐。あのクソしぶといトニー(飛燕)に、とどめを刺さないんですか?〉 〈…必要ない〉グラハムは言った。  眼下のトニー(飛燕)は止まったまま、沈黙していた。  もしグラハムがあのパイロットの立場にあったら、P51の追撃から逃れるために、何にも優先して機体から脱出し、木々の間に身を隠しただろう。  そのような反応がないということは…――。  上空でグラハムは旋回し、トニー(飛燕)の状態をうかがった。  グラハムの読み通り、十二.七ミリ機銃の弾丸が命中し、風防のガラスが砕け散っていた。操縦席のパイロットは、全く動く様子がない。  それこそ死んだようにーー。 〈ーー着陸した後、力尽きたようだ。あるいは瀕死かもしれないが……なあ諸君、あれを見て、思うところはないか?〉  グラハムは、感嘆の呟きをもらした。 〈あんなに見事に河面に着水した航空機を、炎上させるのは無粋というものだ〉  グラハムは今一度、トニーに目をやる。パイロットの顔を見るのは、かなわなさそうだ。 〈――グラハム隊全機へ。直ちに戦闘を中止し、東京湾上に向かうように。B29と合流して、帰投する〉  ……P51たちが上昇して去っていくのを、笠倉はぼうっと眺めた。  エンジンの爆音が遠ざかっていく。その姿が消え、もう撃たれる心配がないと分かったところで、苦労しながら、無用の長物となった酸素マスクを外した。  それで、息苦しさが、ほんの少しマシになったような気がした。 「……あーあ。ついてねえ」  かすれた声で、笠倉はぼやいた。  機体は穴だらけで、無線電話も機銃の弾でオシャカにされた。黒木に現状を伝えることも、救援要請することもできない。おまけに燃料が漏れ出しているようで、油の鼻につく匂いが漂っている。引火の危険があるので、タバコを喫うこともできなかった。  もっとも、もうマッチを擦る気力もないが。 「助けが来るのを、待つしかねえな。こりゃ……」  言いながら、笠倉は笑った。生きて、はなどり隊の面々に再会する機会が、ほぼないことをとっくに理解していた。  身体にあいた穴は、ひとつから二つに増えていた。いや、それ以上かもしれない。撃たれた瞬間の激痛は去り、今はなんとも表現しがたい痛みに変わっている。どちらにせよ、血が止まる様子はなく、操縦席から立ち上がることもできなかった。 「黒木隊長どの。早く迎えをよこさないと……俺、あの世に逃げちまいますよ」  異常な疲労感と眠気に負けて、笠倉は目を閉じる。  まぶたの裏に、白い落下傘の残像がちらついた。 「――死んだ後までお前の面倒を見るとか、勘弁だからな。まだ当分は、来るんじゃないぞ…」  ……五分ほどして、一匹のヤマガラが割れた風防から、飛燕の操縦席にチョロチョロと入ってきた。  橙色の胴をした小鳥はしばらくの間、だらりと垂れた人間の腕の上を、行き来していた。  だが、やがて油と血と死の匂いを感じ取ったようだ。  羽を広げたヤマガラは、再び山林の方へ飛び去っていった。

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