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第18章④

「最初にこれを見ていただきたいのですが――」  そう言って、クリアウォーターは一枚の半紙を韓の前においた。 ――此身死了死了――  冒頭の一句を見ただけで、韓は言い当てた。 「『丹心歌(タンシムガ)』ですね。鄭夢周の」 「ええ。東京で起こった複数の事件現場に、この詩が書き残されていました。そこで、お聞きしたいのですが、この詩を金蘭洙(キムランス)が特に好んでいたようなことはなかったでしょうか?」 「…はて。どうだったか」  考え込む韓に助け舟を出したのは、息子の文葵だった。 「蘭洙オンニ(兄貴)が好きだったかは知りませんが、実の兄の金光洙(キムグァンス)先生は愛誦していましたよ。先生の使っていたノートに書いてあったのを、俺、覚えています」 「先生? 金光洙は、あなたに何か教えていたんですか?」 「はい。俺に、というよりこの街の朝鮮人に、夜学校でハングルや漢文を教えていました。俺は、ハングルは親父に習いましたが、時々、先生のところで、難しい漢文を教えてもらっていたんです」  文葵は懐かしむ顔で語る。 「まあ、半分は年上の姉さん方に可愛がってもらいたくて、顔を出していたようなものですけど。工場の女工さんたちが、昼間の仕事を終えた後、読み書きを習うために、先生のところに大勢来ていたんです」 「なるほど。金蘭洙と兄の金光洙の関係は、どのようなものでしたか。仲はよかったんですか?」  この質問に、韓は微妙な表情を見せた。 「…元々、仲は非常によかったですよ」  元々?ーーその含むような言い方が、クリアウォーターの注意を引く。  しかし、質問は後回しにし、先に韓に話させることにした。 「蘭洙は、兄を心から慕っていました。いつだったか、光洙が街中で同じ年頃の不良たちに絡まれて、軽い怪我をしたことがありました。それを知った蘭洙は激怒して、兄に怪我をさせた連中を探し出すと、全員叩きのめして、近くを流れる川に放り込んだんです。その時はまだ、十四かそこらだったはずですが、もうその頃には、喧嘩じゃ負け知らずだったんじゃないかな。叔父の金哲基(キムチョルギ)は、蘭洙の荒っぽい言動に、しょっちゅう頭を痛めていました」 「パイロットになるくらいだから、金蘭洙は運動も得意だったんでしょうね」 「得意なんてもんじゃないですよ。猫のように身軽で、地面を走るのと変わらない速さで、屋根の上を走っていました。いつだったか、ストライキを起こした工場の作業員たちの味方をして、煙突のてっぺんに登って、要求を書いた(のぼり)を掲げたこともありました」  クリアウォーターは巣鴨プリズンでの逃走劇を思い起こす。カナモトは壁から壁へと飛び移り、刑務所の外へまんまと逃れた。  韓が語る金蘭洙の姿と、連続殺人犯の人物像はこの上なく一致する。  その時、韓が遠慮がちに言った。 「――東京にある日本人の戦犯たちを収容した牢獄で、アメリカの兵隊が殺されたそうですね。その一件に、蘭洙が関わっているんじゃないかと、あなた方は疑っているんですか?」  文葵によって翻訳された日本語を聞いて、表情を変えたのは通訳のカトウだ。  巣鴨プリズンの一件は、韓親子には伝えていない。報道規制も敷かれているので、新聞などにも載っていないはずだ。  そんなカトウの内心を見透かしたように、韓は日本語で言った。 「お若い方。『悪事、千里を走る』――この日本語と似たようなことわざを、朝鮮人も持っています。『足のない言葉は、千里を行く』です」  そこで再び、朝鮮語に切り替える。 「噂は時に、馬や汽車が走るより早く、遠くまで伝わるものです。特に、朝鮮の同胞が迫害に遭ったという話は、あなた方が考える以上の速さで、この街まで届きます」  クリアウォーターは出発直前に白蓮帮の頭目、莫後退(モーホウドゥエイ)から聞いた話を思い出した。  上野の朝鮮人たちが、占領軍の憲兵の手荒い捜査でひどい目に遭ったから、どうにかしてくれと言っていた。おそらく上野あたりから、巣鴨の一件や、そこに朝鮮人が関与していることが、大阪にいる韓たちの耳にも入ったのだろう。 「――蘭洙が事件に関わっているというのは、何かの間違いです」  韓は言った。 「ご存じか知りませんが、彼は戦死したんですよ――特攻に行って」

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