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第18章⑪
…カナモトは洗面所から戻る。室内の情景は、隠れる前とほとんど変わりなかった。
一点、黒い手提げカバンがベッドの上に放置されていることを除いて。そのカバンに、カナモトは見覚えがあった。昨日の夜、「カトウ軍曹」が抱えていたあのカバンだ。
カナモトはためらいなく、カバンを開けた。
最初に目についたのは、数枚の人相書だった。描かれているのは、全てカナモトの顔だった。ひげをたくわえていた時の姿だけでなく、それを剃り落とした顔もある。想像で描いたはずだが、まるで本人を目の前に置いてデッサンしたかのように、よく似ていた。もし今、ホテルの従業員たちにこの絵を見せたら、すぐにでも複数の目撃証言が得られるだろう。
しかし、似顔絵以上に、カナモトを愕然とさせたのは、ファイルの中身だった。
どういう経緯で選ばれたのか知らないが、人の名前とそして住所が記されていた。一枚目の冒頭は明らかに、朝鮮人と分かる名前。
その次の用紙に、見覚えのある四文字の名前を見つけて、カナモトは息を飲んだ。
同姓同名という可能性はすぐに捨てた。
名前の下に、軍での所属先と、その時の階級がはっきりと記されていたからだ。
――元陸軍第□飛行師団第××飛行戦隊麾下、『はなどり隊』所属――
かつて、カナモトと共に、同じ空を飛んで戦い、そして生き残った男。こんな状況でなければ、あるいは懐かしさを覚えたかもしれない。
けれども、今のカナモトの心に湧きあがったのは、危機感だけだった。
あの朱髪男は、カナモトが漠然と考えていたより、ずっと近くまで迫ってきている。
早く手を打たなければ、今まで苦労して築き上げてきたものを、すべて滅茶苦茶にされかねない--カナモトの直感が、そう告げていた。
カナモトは隠し持ってきた十四年式拳銃を取り出した。持ち込んだ弾は、予備も含めて十六発。残りの弾丸や他の武器は、焼け跡のガレキの中に隠してきた。
朱髪男と「カトウ軍曹」のそれぞれに、八発ずつ。それだけ撃ち込めば、まず殺せるはずだった。
同じ頃。ホテルを出たカトウは、大通りをあてもなく歩いていた。
もとより、土地勘はない。しかし、あちこちに焼け跡やガレキの残る市街を進むうちに、ほどなくバラック建ての大きな商店街に行き当たった。
カトウは一件の店でタバコを買い、路上でそれを吸った。周りでは、人が途切れることなく行き来している。しかし、カトウの心は孤独を感じていた。
孤独の裏でクリアウォーターへの怒りが、まだくすぶっている。風向き一つで、それはすぐに再燃しそうだった。その怒りは、ウィンズロウに対する嫉妬心の裏返しで、さらに言うと己に対する自信のなさから来るものだった。
考えるだけで、カトウは耐えられなくなる。
いつかクリアウォーターのカトウに対する愛情が、冷めるのではないか。
冷めることはなくとも、別の誰かに対して、カトウに対するのと同じか、それ以上の好意を寄せるようになるのではないか。
ため息と一緒に煙を吐き、それが宙に消えていくのを、カトウはぼんやり見つめた。
東京を離れてまだ一日しか経っていないのに、もう帰りたくなった。U機関に戻って、翻訳業務室の面々と一緒に仕事をできれば、まだ気分もまぎれただろう。あるいは、フェルミをつかまえて、しょうもない愚痴を聞いてもらうことも。
とにかく今の状態で、四六時中、クリアウォーターと一緒にいることは、苦しいばかりだった。
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