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第18章⑬
今朝、出発した後に清掃係が入って掃除をしたのだろう。部屋は綺麗に片付けられていた。ベッドのシーツとカバーも整えられ、その上にクリアウォーターのカバンが口を開けたまま残されていた。
「………」
カトウは部屋を見渡す。一体、何が変なのか、自分でもうまく説明できない。
あえて言葉にするなら、「匂い」。あるいは「空気」か。
カトウの知らない何者かが纏 う「気配」が、部屋の中に濃く漂っている。そんなふうに感じられた。
カトウは腰のホルスターに手を伸ばし、音も立てずに四十五口径の安全装置を外した。
頭の中で、理性が呆れ気味につぶやく。九割九分の確率で、自分がしていることはバカバカしく、滑稽以外の何者でもない。いもしない敵に、警戒しているのだから。
それでもカトウは、拳銃をいつでも撃てるようにかまえた。かつて、ヨーロッパの戦場に身を置いた。その時の経験から、いくらバカバカしいと思えても、「嫌な予感」や「虫の知らせ」を否定すべきでないことを知っていた。
カトウは部屋の扉を完全に閉めず、少しだけ開けておいた。こうしておけば、不測の事態に陥っても、退路が確保できる。それから、人の隠れられそうな場所を順番に見ていった。
洗面所。クローゼット。しかし、どちらも人はおろか、ゴキブリ一匹すら見当たらない。
最後に目についたのは、二つのベッドだった。カトウは深呼吸して、かがみ込んだ。
片方のカバーをめくる。いない。
そして、残るもう一つへ回り込み、意を決して、下をのぞき込んだ。
「……ああ、恥ずかしい」
カトウは自分に向けて、悪態をついた。
ベッドの下は、空っぽだった。ただ舞い上がったホコリが、差し込んだ光の中で静かに浮遊しているばかりだった。
カトウは四十五口径をホルスターに収めた。完全な思い過ごしだった。きっと、寝不足と不安定な情緒のせいで、神経に異常をきたしているのだろう。
カトウはベッドの上のカバンをつかむと、しっかりと口を閉じて、廊下へ出た。
…カトウが室内を捜索していたその頃。
カナモトはエレベーターホールのすぐそばにある階段室で、息をひそめていた。
先刻、軍服を着た貧相な体躯の日系人がエレベーターから降りてきて、廊下の向こうの部屋へ消えた。大阪駅で一度、見たきりだが間違いない。「カトウ軍曹」だ。
標的を仕留めるために、室内で待つか、それとも外に出るか――カナモトは考えて、この場所を選んだ。二人を同時に片付けなければならない状況で、遮蔽物のある場所は、あまり理想的とは言えない。銃撃を防ぐために、ベッドや椅子を障壁がわりに使われたら、厄介だ。
相手に身を隠す場所を与えない空間が、ないものか…--。
そこで思いついたのが、エレベーターだった。二人が乗り込んだ直後、不意をつけば、一方的に銃弾を撃ち込める。
--とはいえ。拳銃だけ持ってきたのは、失敗だったな。
カナモトは少し後悔していた。隠し持つのが難しくても、手榴弾を二発くらい携帯してきたらよかった。安全ピンを抜いて、閉じる寸前のエレベーターに投げ込めば、一番手間がかからなかっただろう。
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