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第19章⑦

 甲州街道沿いの畑の中にある一軒の農家の離れが、黒木の下宿である。――いや、下宿だった。  初めて帝都にB-29が姿を見せて約半年。その間に、黒木がここで寝泊まりできた日数は、合計して、おそらくひと月に満たない。それでも、ひと目を気にせず過ごせるささやかな憩いの場だった。  よりにもよってその場所を、狙いすましたかのようにP-51が襲った。完全に偶然だったが、アメリカ軍のパイロットも、まさかここが悪名高い「トチ狂った飛燕(マッドネス・トニー)」の住まいだとは、思いもしなかっただろう。  機銃掃射を受けた離れの建物は、ひどいあり様となっていた。  ガラス窓はことごとく砕け散り、十二.七ミリ弾が命中した壁は、まるで障子に指を突っ込んだように、穴がいくつも空いていた。屋内を見ると、貫通した銃弾が畳や柱や天井板に、めり込んでいる。散らばっていたガラス破片は、すでに農家の主人たちによって片付けられていたものの、窓わくはふきさらしのままだ。すぐに修理できないなら、雨が降る前に板で覆う必要がある。   黒木と金本が一緒に酒を飲み、互いに気持ちを確かめ合い、その後、いく度も情を交わした場所は、修復を施さない限り、再び寝泊まりすることは難しそうだった。  しかし、屋内の惨状以上に、黒木を落胆させ、憤らせたのは、家の周囲に置いていた鉢植えを壊滅させられたことだった。  砕け、無数の破片と化した鉢植えを前に、黒木は最初、言葉も出なかった。 「……この牡丹。もう一週間ほどで、花が咲くはずだったんだが」  かがみ込み、根本近くから折れた苗木をすくい上げる。花は開く前のつぼみのまま、すでにしおれていた。また、鉢植えとは別に、水がめで睡蓮を育てていたが、水は全て抜けて蒸発してしまっていた。 「――ここの片付けは後回しだ」  黒木は立ち上がると、金本をいざなって家の中に入った。  家具の中で特に被害が大きかったのは、四畳半の間のタンスだった。  弾痕の残る引き出しを開け、黒木は着物を包む畳紙(たとうがみ)を取り出す。朝顔が描かれた着物を手にし、すぐにため息を吐いた。 「穴が開いてら。このまま着るのは無理だな」 「……誰が着るかは、この際、聞かないが。(つくろ)えば、また着られるだろう」  金本は取りなした。 「母君の大事な形見じゃないか」 「だとしても、さすがに飛行場に持ち込める量じゃない。ーー手放すには、いい機会かもしれん」  それを聞いて、金本は驚く。  畳紙で着物を元のように包みながら、黒木はうそぶく。 「どのみち俺が死んだら、それまでだ。あの世には持っていけねえよ」  「死」という言葉を、黒木は当たり前のように口にした。そのことに、金本は心が冷えた。  約二週間前、初めてP-51が帝都上空に現れ、ベテランの搭乗員だった笠倉が戦死した。  おそらく、それ以来だ。黒木が自分の死を意識した言葉を、金本の前で言うようになったのはーー。  笠倉は逃げることにかけて、誰よりも巧みだった。そんな男でも、P-51たちに追いつめられ、ついに逃げきれずに死んだ。  笠倉の死は、黒木も含め戦隊の搭乗員たちに、思いがけず深い爪痕を残したようだった。  金本の心情を、知ってか知らずか。黒木は無言で、部下から目をそらした。大きな瞳が、隣の六畳間に鎮座する収納箱をとらえる。タンスと違って、こちらは無傷である。箱にはいくつも引き出しがついていて、その一つ一つに、黒木が今まで集めた植物の種や球根がしまい込まれていた。  前の冬、特攻を命じられた時、この箱をどうするかで、黒木は迷った。その時は、失うのが惜しいと思った。  けれども今はもう、以前ほどの執着心が湧かなかった。  漠然と、黒木には予感があった。 ーー自分がこれらの種を植えて、花を愛でる機会はおそらく永遠にやってこない――。

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