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第19章⑧

――この箱もいっそ、手放してしまうか…。  黒木がそう考えた矢先、耳元で聞き慣れた声がした。 「ここの家主に、箱ごと預かってもらったらどうだ」  金本の提案に、黒木は身じろぎする。 「…家の外も中も、P-51にめちゃくちゃにされた。もう、この下宿は引きはらうつもりだ。置いていくだけ、迷惑だ」 「なら、預かり料に母君の着物を何枚か渡すのは?」  その提案は、黒木の意表をついた。  金本は淡々と言った。 「俺は女の着物のことなどさっぱりだが。それでも、あれが高価でいい着物だとはわかる。たとえ穴が開いていたとしても、喜んで受け取ると思う」  金本は己の手を、黒木の手に重ねた。 「預かってもらって。戦争が終わったら、引き取りに来ればいい。種や球根は、それから植えて育てたらいいじゃないか。二人で」  最後のひと言に、黒木が目をみはった。 「……二人って。俺とお前か?」 「ああ」  沈黙が、両者の間に下りる。やがて、黒木がゆっくりふり返った。  その時の顔を、金本は生きている間、忘れることはないと思った。  朝露に濡れたナツハゼの実のように、黒い瞳をほんの少し潤ませて、菩薩のような微笑みを浮かべていた。 「トラジ(桔梗)を植えてやる」黒木が言った。 「(ネギ)ユチェッコッ(菜の花)も。柿はいるか?」 「欲しい」 「実がなるまで、何年もかかるぞ」 「待つさ」 「なら、植えてやる」  黒木は金本を抱き寄せ、畳に転がる。そのままキスをした。  壊れた窓にはカーテンがかかっておらず、誰か来たら丸見えだ。しかし、バレても別にかまわないと黒木は思った。金本に対する溢れんばかりの愛しさを前にしたら、秘密を守らなければいけないという義務感など、どうでもよくなった。  そして幸いにして、誰にも見られずに済んだ。  身を起こし、黒木は照れくさそうに笑った。 「外の片付けが残ってる。とっとと済ませるぞ」  割れてしまった鉢植えは、すべて離れの裏手に穴を掘って埋めることにした。すでに家主の許可も取っている。黒木はスコップを借りてきて、金本と交代で穴を掘った。ある程度の大きさになると、素焼きの鉢の破片を集め、犠牲となった植物たちを一緒に葬った。  ただ、一つ。無傷の木槿(ムクゲ)の苗木だけは、金本が埋めようとしたのをとっさに止めた。 「ーーそいつはムシロを巻いて、トラックに積んでくれ」  飛行場に戻った後、黒木は金本と二人で木槿(ムクゲ)を植えた。そこは「はなどり隊」のピストから少し離れた日当たりのいい場所だった。 「ここなら、成長しても邪魔にはならないだろう」 「毎日、水をやりに来た方がいいか?」  周りに人気がないことを確認した上で、金本は敬語を使わずに尋ねた。 「必要ない」黒木は言った。 「木槿は紫蘭と一緒で、手がかからない。よほど土が痩せてなけりゃ、ほっといても勝手に育って花を咲かせる」  まだ若い葉を見やり、黒木は吟じた。 「『松樹千年、(つい)()れ朽ち、槿花(きんか)一日、(おのずか)ら栄を為す』」 「…何かの呪文か?」 「白楽天の漢詩だ。『松の木は千年生きるが、最後には朽ち果て、木槿の花はただ一日の命だが、堂々と咲き誇る』くらいの意味だ」 「…短い命でも、精一杯生きるということか」 「まあな。木槿の花は、確かに一日でしぼむ。だが、たくさんの花を次から次へと咲かせ、それを夏の間、繰り返す。だからこそ、朝鮮では『尽きることがない花』と言うんだ。ムグンファ(無窮花)と」  黒木は、少年っぽい透明な笑みを金本に向けた。 「夏になったら、花が咲く。この苗は白い花だ。咲いたら、一緒に見ようぜ」

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