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第19章⑨
翌日、朝方に空襲警報が鳴った。
黒木たちは迎撃に上がり、上空五千メートルから六千メートルで、北上するB-29の大編隊を発見した。黒木は直掩につくであろうP-51の存在をずっと警戒していた。しかし、この日に限っては、P-51は姿を見せなかった。
百三十機からなる「かもくじら 」たちの目標は、立川にある航空機工場と、静岡県内の軍需工場だった。黒木たちは集団攻撃をかけ、一機を墜とし、さらに一機に白煙を上げさせ、駿河湾沖へ追い出した。
戦隊から戦死者は出なかった。
けれどもこの日、立川だけでもまた五百人以上の死傷者を出した。
戦いが終わり、黒煙を上げる市街を目の当たりにし、黒木の心は否応なく暗然となる。
自分たちがしていることに、本当に意味はあるのかと、また考えてしまう。地上に戻った後、金本に慰められても、鬱屈を完全に拭い去ることはできなかった。
…事件が起こったのは、その夜のことだった。
「はなどり隊」のピストでは、搭乗員たちが夕食を済ませ、あとは消灯して寝るばかりとなっていた。午前中の戦闘の疲れで、すでに眠りこんでいる者もちらほらいる。
そんなところへ、ピストの扉を荒っぽい手つきで開け、黒木がぬっと入ってきた。
起きていた隊員たちが、一斉に立ち上がって敬礼する。そして、すぐに全員が気づいた。
美貌で知られる彼らの隊長が、人喰い鬼のような剣呑な雰囲気を発散していることに。
固まる一同を睨めつけ、黒木は一人の部下に、刺すような視線を向けた。
「ーー松岡。ちょっと来い」
呼ばれたのは、今村和時少尉と将棋を指していた松岡弘 軍曹だった。
名指しされて、松岡の顔がこわばる。しかし、すぐ腹をくくったようだ。
どうも、この事態をある程度、予期していたようだーー金本の目には、そう映った。
ピスト内の人間が固唾を飲んで見守る中、松岡は無言で黒木の後について行った。
ピストを出て、しばらく歩いた。
黒木が足を止めたのは、飛行場内に設けられた掩体壕の一つだった。裏に回れば、昼間でも人目につかない。それはつまり、その気になれば思う存分、制裁を加えられる場所ということだった。
もっとも、以前に比べれば、黒木の言動もいくぶんかは落ち着いている。
松岡が調布飛行場に来た頃など、気分次第で鉄拳を振るうことがたびたびだった。一番の被害者は今村だったが、松岡も結構な頻度で殴られた経験を持つ。
ーーこの人。顔は西洋人形みたいなのに、中身は武蔵坊弁慶だからな……。
黒木栄也大尉は、松岡が今までの人生で出くわした中で、もっとも綺麗でかつ暴力的な男だった。誰がつけたか知らないが、黒木につけられた「羅刹女」というあだ名を聞いた時、松岡は言い得て妙だと思った。
その黒木が、何の前置きもなく、冷ややかな声を松岡に浴びせた。
「――言い訳はいらん。理由を聞かせろ。どうして、特攻隊員に志願した?」
昨年十二月。黒木は陸軍航空隊の幹部たちが集まる場で、航空機による特別攻撃に、真っ向から反対する立場を示した。その過程で、大本営陸軍報道部の小脇順右少佐と対立して深い怨恨を買い、さらに河内作治大佐らの不興を買った。
その結果、黒木は自ら特攻に出ざるを得ない立場に追い込まれた。だが、裏で画策していた河内や小脇の期待に反し、傲岸不遜な大尉はB-29に体当たりした後、落下傘で脱出して生還を果たした。
河内と小脇は調布飛行場を訪れて、黒木が属す戦隊の戦隊長に黒木をもう一度、特攻に出すよう圧力をかけた。
しかし、両名が第六航空軍へ移動となったことで、それも無くなった。
その後、戦隊からは二度、特攻隊員が選出されたが、「はなどり隊」から搭乗員が選ばれることはなかった。戦隊長は、その理由を表立って明らかにすることはなかったが、特攻にあからさまに反発する黒木を憚 っての行動であることは、飛行場内のほとんどの人間が察していた。
黒木をヘタに刺激すると、恐ろしく厄介な事態を引き起こすーーそのことを、少なからぬ人間が知っていた。
一方、そんな隊長の薫陶を受けた影響で、「はなどり隊」の搭乗員たちも、あえて特攻の志願を行うことはなかった。これには、黒木ほどあからさまでないにせよ、副隊長の今村や、古参兵の金本や笠倉が、やはり特攻反対の姿勢をとっていたことも大きい。一時、志願すると息巻いていた東智伍長も、笠倉にいいように妨害されているうちに、結局あきらめている。
そういう経緯があったからこそ。部下の松岡が、戦隊長のところへ直訴しに行き、特攻隊への志願を願い出たことは、黒木にとって完全に晴天の霹靂であった。
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