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第19章⑩
「――志願したのに、特別な理由はありません」
松岡は精一杯、背筋を伸ばした。それでも、黒木と二人きりで向き合っていることによる緊張はどうにもならず、声が震えそうになる。
「ただ、こんな戦局です。今のままでは、沖縄の防衛さえ危ういと聞いています。せめて、自分にできることをすべきだと思って--…」
松岡は最後まで言い終えることができなかった。目にも止まらぬ速さで、黒木の右手が飛んできたからだ。
頬をしたたかに張られ、松岡はよろめいた。そのまま、ろくに受け身も取れずに、背中からコンクリート製の掩体壕にぶつかる。殴られた男は息がつまり、その場にへたり込んだ。
にじり寄ってくる加害者を見上げ、松岡は恐怖と共に思い知った。
彼が仕える隊長は表面上、おとなしくなったかもしれない。しかし、美しい皮一枚の下にひそむ暴悪な本性は、一片たりとも変わっていなかった。
松岡を見下ろす黒木を、夜空にかかった月が青白く照らす。拳を固める相手を見て、また殴られると思った松岡は、反射的に腕で顔をかばう。
今か、今かと震えながら身構えていたが、いつまで経っても鉄拳は飛んでこなかった。
そのかわり、
「これしきのことで怯むくらいなら。志願なんぞ、はなからやめちまえ」
嘲りと蔑みがこもった声が降ってきた。
「アメ公のB-29や空母にぶつかって死ぬのは、殴られるより何百倍も痛いだろうよ。俺は死んだことがないから、知らんが…」
黒木はかがみ込み、松岡と視線を合わせた。黒い瞳に、怒気と殺気が満ちている。
怖い、と松岡は思った。
そして同時に、こんな状況にも関わらずーー綺麗な目だと思った。
「志願した本当の理由はなんだ?」
その問いに返ってきたのは、重い沈黙だった。黒木は舌打ちした。
「貴様。今日、飛んでいた時、いつもの調子じゃなかったな。僚機の金本も、言っていたぞ。貴様の長所は、どんな時でもゼンマイ巻いた時計みたいに、同じ調子で手堅く飛ぶことだ。だが今日に限っては、まるで狂った猫かと言わんばかりに、危険もかえりみずにB-29に何度も突っかかっていった。ーー何か、あったんだろう? 貴様から冷静さを失わせる何かが」
黒木は口を閉ざして待った。今度は、それほど長くかからなかった。
「………どうかここだけの話にして、誰にも言わないでください」
そう呟いて、ようやく松岡は重い口を開いた。
松岡の故郷は、福島県の郡山である。父親の仕事の関係で生まれたのは東京であるが、物心つく頃には、ふるさとに戻っていた。松岡は小学校も中学校も地元で進学し、仙台にあった航空機乗員養成所を経て、陸軍の航空機搭乗員となった。
松岡には、故郷に恋人がいた。幼なじみの女性で、小学校も同じ所に通っていた。松岡の父親と彼女の父親は仲の良い知人同士で、ゆくゆくは二人を結婚させるつもりでいた。
しかし約十日前。郡山がB-29の空襲を受け、四百人以上の人間が犠牲となった。
そして死者たちの中に、松岡の恋人も含まれていた……。
「ーー俺はまだ二十歳そこそこの若造で、しかも戦闘機乗りです。いつ死んでも、おかしくない。だから、もしものことがあって、彼女を後家さんにしたらかわいそうだと思って、結婚にふみきれずにいました。けれど一昨日、父親から手紙が来て……働いていた工場が爆撃にあって、亡くなったと知らされました」
松岡は声を詰まらせた。
「まだ死んだということが、信じられません。悲しいという気持ちよりも、なんだか心の支えがなくなってしまった感じで……でも今日、上空でB-29を目にした時、『ああ、あれが彼女を殺したんだ』と思ったら、どうしようもなく憎くなって、自分を抑えきれなくなりました」
日頃、おとなしい男が、この時は人目も気にせずボロボロと涙を流した。
「金本曹長にも、申し訳ないことをしました。自分が冷静さを欠いたせいで、飛んでいる間、曹長どのを何度も危険な目に遭わせました」
「…もう、過ぎたことだ。金本も多分、気にしていない。次に飛ぶ時、いつものように飛べばーー」
「……無理です」
松岡はしゃくり上げ、鼻をすすった。
「分かるんです。きっと次も、俺はまた同じことをしてしまう。もう、前のようには飛べません。曹長どのや、隊の誰かを必ず危険にさらします。俺には、それが耐えられないんです」
泣きながら、松岡は黒木に向かって頭を下げた。
「どうか、自分に死に場所を与えてください。この憎しみのせいで仲間を死なせてしまう前に、敵を殺す機会を与えてください。どうか……」
「……だめだ」
黒木は拒んだ。しかし声はかすれ、いつもの勢いはなかった。
「今の貴様は、神経が弱っている。療養が必要だーーそう、戦隊長に報告する」
それだけ言って、黒木は松岡に背を向けた。
これ以上、この場にいたくなかった。婚約者に先立たれた哀れな部下に寄り添って、その悲しみを癒せるほど、黒木は成熟した人間ではなかった。
むしろーー愛する者を守れずに、むざむざ生きながらえたくない、その苦痛から解放されたいという松岡の願いに、同調さえしそうだった。
立ち去ろうとする黒木の耳を、哀れさと恨みの混じった叫びが打った。
「ーーこのままじゃ、彼女に顔向けできないんです! 爆弾で、メチャクチャにされて死んでいったあの子と同じ苦しみを、味わわなければ、合わせる顔がないんですよ……」
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