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第19章⑪

 二日後、松岡は本人の希望した通り、新たに編成された特攻隊の隊員に選出された。黒木が提出した「神経衰弱ノ疑ヒ有リ」との上申は、結局、軍医の診察を経てあっけなく却下された。  松岡はほどなく、他の特攻隊員たちと共に、調布飛行場から飛び立っていった。  向かった先は、鹿児島県。知覧飛行場である。  その三週間後。飛び立っていった特攻隊の後を追うように、黒木たちも知覧への転進を命じられ、戦隊のほぼ全機で調布飛行場を後にする。  黒木たちの主たる任務は、特攻隊員たちの「直掩」ーー沖縄近海を目指す特攻機を、途中の海域まで援護して飛ぶことだった。  知覧飛行場は今や、特攻機とその直掩機が飛び立っていく最大の基地と化していた。  …五月中旬。福岡県福岡市。  かつて女学校として使われていた校舎を接収し、陸軍が第六航空軍司令部を置いたのは、今年三月のことであった。  あれから二ヶ月。季節は移ろい、晩春の暖かい陽が、飛散防止のテープを貼られたガラス窓から差し込んでいる。以前、十代の女子学生の華やかな笑い声が響いた廊下に、軍服を着た厳しい姿の将校たちが、行き来している。その顔は、いずれも険しい。  米軍が沖縄に上陸して、一ヶ月半が経過しようとしていた。  その間に、海軍の連合艦隊司令長官の指揮下に入った陸軍第六航空軍は、海軍航空隊と共に、計七回にわたる大規模な航空総攻撃に実行した。  いずれも、航空機による米軍艦船の破壊を狙ったものである。陸海軍合わせて、一度に三百機近い特攻機が作戦に投入されることもあった。  その結果、すでに四月に実施された四度の総攻撃だけで、陸軍航空隊は四百三十人以上の搭乗員を失った。海軍に至っては、その倍以上を数える。さらに五月に入っても、依然として沖縄近海を航行する米軍艦船に対する攻撃は継続されていた。  しかし、多くの特攻機が、艦船にたどり着くより先に、米軍のレーダーによって発見され、目標のはるか手前で撃墜された。  わずかに、最新鋭の監視網をかいくぐって、かろうじて船まで辿り着く機体も存在したが、米軍に決定的な損害を与えることはできなかった。  時間だけが虚しく経過していく。その間に、アメリカの上陸部隊による沖縄の制圧は、着実に進んでいった。  もはや沖縄の運命は、風前の灯火であるーーそれが、司令部に務める士官たちの間での、暗黙の共通認識となりつつあった。  この日、第六航空軍参謀長の矢口馨(やぐちかおる)少将は、数日前に行われた第七次の航空総攻撃について報告を行うため、司令官の高島実已(たかしまさねみ)中将のもとを訪れていた。  一通り話し終えた後、矢口は言った。 「前回行われた攻撃において、整備不良等によって離陸できなかったり、あるいは沖縄に向かう途上で喜界島などに不時着した機体について、現時点で把握した限りの数を申し上げます」  矢口の口にした数を聞いて、高島はひと言、 「…多いな」とつぶやいた。 「離島に不時着した者を、救出できる見込みは立っているか?」 「現在、重爆を手配しております。ただ、準備に時間がかかっている上、沖縄へ向かう洋上には、すでに米軍機が昼夜問わず、たびたび姿を見せています。直掩機をつけなければ、餌食になるかと……情けない話ですが、特攻機につける直掩機だけでも、十分な数を確保することができていないのが、現状です」 「それでも、可能な限り急いで手配してくれ。飛び立つこともできず、米軍の空襲におびえ、地上で朽ちていくばかりでは、さすがに彼らが気の毒だ」  高島は憮然とした顔を窓へ向ける。それは己の胸中を、部下に悟られぬための行為だった。  不時着や、そもそも滑走路から離陸できない機体が、不自然なほど多すぎる。それを整備の問題のみに帰することは、できなかった。 --…無理もない。どれほど厳しい修練を積んだ者であっても、死を(いと)い、生きようとするのは人間の本能だ。まして、二十歳ほどの若者となれば……一生でもっとも、生命力にあふれた時期なのだから。  第六航空軍司令官である高島は、かなり前に気づいていた。  目的を果たせず、今なお生き続けている特攻隊員の何割かは、米軍の船に突入することを、どうしても肯んじ得なかったのだ。だから「機体の不調」という理屈をつけて、なんとか生きながらえようとしている。彼らは、兵士という外面の下で、人間として抵抗しているのだ。  高島は、そのことを責める気になれなかった。  困難で残酷な時代に居合わせてしまい、悲惨な境遇に置かれた彼らが、ただただ哀れだった。  しかし、そんな感情を抱くことこそ、偽善の極みだった。  米軍の本土上陸を、少しでも遅らせるために。特攻隊を組織し、引き返せない死地へ追いやる命令を下しているのは、他でもなく高島自身であった。

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