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第19章⑮
問題の少尉は、宇都木 と言った。特操(特別操縦見習士官)の一期出身で、偶然にも「はなどり隊」の今村和時少尉とは旧知の間柄だった。
ただし宇都木から声をかけられた時、今村はとっさに相手が誰だか分からなかった。名乗られて、ようやく思い当たり、そして少なからず驚いた。
特操時代の宇都木は自信家で、快活な男だった。しかし今、目の前に現れた男は、以前とは、まるで別人だ。やつれた雰囲気を引きずり、目が妙な据わり方をしていた。
「今村、お前まだ生きてたんだな。そうか、よかった。特操の同期は、もう何人も死んじまったから、生きてるのに会えてうれしいよ……」
今村をつかまえて、宇都木は聞かれてもいないことを、一方的に話した。
「俺はさ。特攻に行くことになったよ…正確には、行かされることになった。そんなつもりはなかったのに、ある日突然、そういうことになった。今村。お前、知覧には…」
「俺は直掩任務で来た。特攻機を、途中まで援護する仕事だ」
「そうか。それなら、まだいいな……ああ、でも気をつけろよ。本当にある日、突然行かされることになるから」
無表情に近かった宇都木は、唐突に、引きつった笑いを浮かべる。相手のことを考慮していない話しぶりや、不自然な表情の変化から、宇都木が精神的に追いつめられていることが、ひしひしと伝わった。
「今村よお。お前、俺みたいな立場になった時、死ぬ覚悟できてるか?」
今村は、答えにつまった。「死」は、今村が一番避けてきたことだ。いつだって、生き残るために、つたない技量で最善を尽くしてきた。つい三ヶ月ほど前、艦載機の機銃を浴びて、もう墜落するしかないと思った時でさえ、死に物狂いのあがきで、生還をつかみ取った。
そんな自分が、もしアメリカの艦船に突っ込むことを命じられて、果たして本当に実行できるだろうか?
今村は、戦死した「はなどり隊」の工藤克吉少尉のことを思い出した。
工藤は今村や宇都木と同じく特操の出身で、「はなどり隊」に同時期に配属されたよしみから、友人となった。ひまな時は、よく一緒に将棋をさした仲だ。
その工藤は昨年、B29への特攻を命じられ、それを実行して死んだ。亡骸は、今村たちが墜落現場から掘り起こして、調布へ連れ帰った。
工藤は特攻隊員に選ばれた後も、普段と変わらぬ態度で日々を過ごしていた。どうしてあんなに平然としていられたのか、どうやって死ぬことと折り合いをつけたのか、今村はついに聞くことができなかった。
しかし今になって、聞いておけばよかったと後悔した。
…口を閉ざす今村に、宇都木はささやいた。
「…分かるよ。お前と、同じだ。俺だって、まだできてないんだ。死ぬ覚悟ができてない。困るよな。でもよ、お前が建築をやりたいみたいに、俺は作家になりたいんだ。書きたい話が、たくさんあるんだよ。なのに、ひでえよな……」
宇都木は涙ぐむ。しかし、泣く寸前でかろうじてこらえた。
「みっともないところ、見せた。悪い。今、言ったこと全部、忘れてくれ」
「…家族や親しい人間に、何かことづけはあるか? あるなら、預かるが」
「あー…ないかな。だけど、一つだけ。江戸川乱歩の新作出たら、俺の墓に一冊供えてくれよ。お前が、生きてたらでいいから」
「分かった」
「ありがと。頼むよ」
宇都木は今村の肩を叩く。それから、出る時間を間違えた幽霊みたいに、おぼつかない足取りでフラフラと離れていった。
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