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第19章⑰
オーストラリア、ブリスベン。連合軍翻訳通訳部 。
ーー目ナド「ツム」ツテ 目標ニ逃ゲラレテハナラヌ
眼ハ開ケタママダ 眼ヲ開ケタママ 「ブツ」カツタ男モアル
彼レハ 其ノ楽シサヲ語ル……ーー
「『楽しさを語る』?……死人が、口をきけるわけがないだろうに。馬鹿らしい」
リチャード・ヒロユキ・アイダ准尉は、肩をすくめ、手にしていた鉛筆をレポート用紙の上に転がした。机から顔を上げる。前後左右に、まったく同じ規格をした没個性的な木机が、何十どころか百以上並んでいる。その一つ一つで、日本語を身につけたアメリカ陸軍の語学兵が、自分に割り当てられたありとあらゆる種類の日本語の書き物--軍の暗号無線を解読して入手した機密情報から、密かに入手された日本の新聞や雑誌、さらに捕虜にした日本兵から得たり、あるいは戦場で鹵獲した書類などを、英語に翻訳していた。
アイダが頬杖をついていると、たまたまそこに、彼の現在の上官が通りかかった。
目立つ赤毛をした大尉は、不思議そうな顔でアイダの机をのぞきこんだ。
「不服そうな顔をしているね。どうかしたのかい?」
ダニエル・クリアウォーター大尉の姿を見て、アイダは表情をやや和らげた。
「大尉が、例の重巡洋艦『那智』から引き上げられた書類の件で、席をはずされていた間に、持ち込まれた書類がありまして。それを、翻訳していたんです」
アイダは今しがたまで読んでいた小冊子を、クリアウォーターに示す。全体的に紙がふやけ、ところどころに白っぽい粉が吹いている。おそらく、海水を被ったのだろう。さらに、左下に赤黒い染みがついている。それが血の乾いた跡であることを、クリアウォーターは正確に見抜いた。
冊子の粗悪な表紙には、「特攻隊員用極秘操縦マニュアル」と印字してあった。
「多分、海軍の機動部隊が、沖縄あたりで入手したんでしょう」
アイダは言った。
「特攻機に突っ込まれたものの、沈まなかった船もあったと聞きましたから。マニュアルの持ち主は多分、同時に持ち込まれた軍隊手帳の持ち主と、同じ人間だと思います」
机の隅に置いた薄鼠色の手帳を、アイダは指差す。クリアウォーターが手に取ると、開いてすぐのところに「宇都木礼司少尉」と書いてあった。
「…軍隊手帳は、珍しくもないが。特攻隊員のマニュアルの方は、私も初めて目にするな」
「実際的なこととして、特攻する時の飛行機の侵入角度とか、高度が書いてありました。それからパイロットの心得もあったんですが……それがなんとも、阿呆くさくて。やれ、必ず船を沈める信念がどうとか、ぶつかる時には『必殺』の喚声をあげろとか……。この心得を書いた人間は、きっと戦場から遠く離れたところで酒飲みながら、これから自爆攻撃させられる人間にありがたい説教を垂れてやろうという気で、書いたんでしょう。ーー救いがたい馬鹿ですよ」
アイダの言葉は、辛辣だった。
クリアウォーターは、乾いてざらつく冊子に、緑色の目を向ける。
「…こういうマニュアルが作られること自体、私は怖さを感じるね。マニュアルというのは、不特定多数の人間を想定して作られる手引き書だ。これを持たされて、自殺攻撃を命じられる兵士たちが、一体、どれほどの数にのぼるか。見当もつかない」
「少なくとも、日本の人口より多いってことはないでしょう。全国民が死に絶えるまで戦争を続けることは、あり得ないでしょうから。ま、そういう阿呆なことを言って戦意高揚させようとする日本の新聞は、ちょくちょく見かけますが」
アイダは、ため息をつく。
「笑って死んだ人間に、俺はお目にかかったことがないし、『天皇陛下万歳』と唱えて死んだ日本兵も見たことがない。逆に、死に際にある連中が、しょっちゅう言う言葉があるんですが…わかります?」
「何と言うんだい?」
「『お母さん』ですよ。別に、これは日本兵に限った話じゃない。アメリカ兵も同じです。『マム 』って言って死んだ奴が、俺が覚えている限りでも、二、三人はいます。…不思議なものですね。お互い、殺し合うくらいに憎んでいるのに、いざ死ぬ時は同じようなことを言う。こういうことは、経験した人間しか知らないことですけど」
部下の話に耳を傾けながら、クリアウォーターは思い出す。
日本と開戦した後、アイダは自らの意志で、ニューギニアの最前線へ飛び込んだ。端正な顔立ちをした日系二世の青年は、戦場の非情さも、残酷さも、醜悪さも、下劣さも、全て己の目と耳で見聞きしてきた。それゆえか。戦争の現実をよく理解せず、それを起こして何年も継続させている人間たちのことを、軽蔑し、憎んでいる節 があった。
クリアウォーターは、アイダに断りを入れ、小冊子をめくる。最後のページまでたどり着いた時、赤毛の大尉は、鉛筆でしたためられた書き込みを見つけた。
海水のせいで薄れていたが、それでも文字ははっきり読めた。
〈特攻は下策の下、クソッタレだ。バカヤロウ〉
クリアウォーターは、それをアイダに見せた。
たちまちアイダの顔に、皮肉っぽい笑みが浮かんだ。
「ーーこのマニュアルに書いてあったことで。こいつが一番、常識的でマトモな言葉ですよ」
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