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第19章⑳

 沖縄陥落が現実味を増すにつれて、第六航空軍司令部の空気は重くなる一方だった。それを加速させたのは、他でもない。司令官である高島実巳中将の想定外の退陣であった。  狭心症の発作を起こした高島は、副官である上原少佐たちの迅速な対応によって、かろうじて一命を取り留めた。しかし、心臓に受けたダメージは、致命的なものだった。治療を施す軍医たちはいずれも、高島の軍務への復帰は、絶望的と判断せざるを得なかった。  その結果、即日、高島は予備役に入れられ、第六航空軍司令官には新たに別の人物が任命されることになった。  …司令部が混迷する中、さほど影響を受けていない人間が、二名ほど存在した。  一人が小脇順右少佐であり、そしてもう一人が、参謀部の河内作治大佐である。  小脇を迎え入れた時も、河内の装いは常と変わらなかった。口髭は一筋の乱れもなく整えられ、軍服にはシワもなく、靴も鏡のように磨き上げられている。その顔に浮かぶ表情は、以前と比べて晴れやかとさえ言えた。 「特攻隊員たちの管理は、うまくいっているか。小脇少佐?」 「はっ。反抗的な連中が多いですが、彼奴らの性根を矯正することが務めと思い、全力を尽くしております」 「それは、心強い限りだ。やはり、貴官を責任者に据えた判断に、誤りはなかったようだ」  河内は口ひげを震わせて笑う。他の参謀たちの反対を押しのけて、小脇を特攻隊員の生き残りを住まわせる施設の責任者に推薦したのは、河内であった。  上官である矢口馨少将は、特に異論もなく、これを受け入れた。高島が退いた後、参謀長である彼の仕事は多忙をきわめ、いち施設の管理者として小脇が適任か否か、精査するほどの余裕もなかった。 「--とはいえ、かように大勢の者が、任務を放棄して逃げ戻っている現状は、軍の体面に関わる深刻な事態だ」 「大佐どののおっしゃる通りです」 「そこで、小脇少佐。貴官にひとつ、仕事を任せたい」  河内はそう前置きし、小脇に彼の計画する「仕事」の内容を詳しく語った。  聞く内に、小脇の目がギラギラと輝き出した……。  小脇が退席した後、河内は満足そうにほくそ笑んだ。  これから起こることは全て、正当な報いだと、信じて疑わなかった。  河内と小脇の行いをし、あまつさえ、大本営からこのような僻地へ移した高島中将は、もはや脅威とならない。東京が大空襲に見舞われたあの日、高島の狭心症の薬瓶を、河内は密かに偽薬の入ったものとすり替えた。いずれ、致命的な発作を起こすことを期待して。そして、ことは河内の期待通りに運んだ。  河内に、罪悪感はない。高島には単に天罰が下ったのだと、内心、嘲笑っていた。 ーーあの一件に関わった者は、全員、ふさわしい罰を受けねばならない。  河内はその相手を思い浮かべる。真っ先に処罰しようと思っていた不肖の甥ーー笠倉孝曹長は一ヶ月前に戦死した。逃げることばかりに長けていた男は、復讐の手からもまんまと逃げおおせたわけだ。河内はそのことを残念に思ったが、致し方ない。  鉄槌を下すべき者どもは、まだ残っている。  河内はその一人一人を丹念に片づけていくつもりだった。

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