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第19章㉕

 それから、さほど経たない内に、進行方向の海上に見覚えのあるシルエットが現れた。  大隅半島と薩摩半島。その両半島に挟まれて、三十年前の大噴火で大隅半島と陸続きになった桜島の姿が視認できた。 「--喜べ! 少なくとも溺死の心配はなくなった。戻ってきたぞ」  黒木は部下たちを激励した。だが、うかれてばかりもいられない。燃料計の針は、予想よりも早くゼロに近づきつつある。  時間的余裕は残されておらず、さらに別の懸念もあった。  視界が利かぬ中、敵機と誤認されて高射砲の弾を食らっては、目も当てられない。  黒木は急いで地上との交信を試みた。 「ーー知覧飛行場へ。こちら直掩隊の黒木大尉だ。応答を願う…」  同じことを二回繰り返すと、すぐに飛行場から反応があった。  黒木と地上管制官との間で、やりとりが交わされる。そこからの動きは早かった。  味方機を迎え入れるために、飛行場から周辺の高射砲部隊に連絡が入る。砲撃の心配が無くなった後、ようやく黒木は降下の指示を出した。  高度を千五百メートルまでおとし、その高さを維持して開聞岳の北上空へ入る。そのまま上空を旋回しながら、地上の動きを待った。  せいぜい十分ほどの時間だったが、黒木も含め、搭乗員たちにはその何倍にも感じられた。  眼下の闇の中に、明かりが灯った。  一つ、また一つ。飛行場で帰りを待つ整備兵たちが灯した細長い光の列は、滑走路の位置を示す誘導灯だった。 「直掩隊へ」  地上から通信が入る。 「灯りは、敵爆撃機の格好の目標になる。急ぎ帰投せよ」 「承知した。ーー聞いたな、今村!」  黒木は部下の一人を、名指しで呼んだ。 「ずいぶん前のことだが。調布で夜間飛行訓練を実施した時、貴様が一番そつなく着陸していた。いい機会だ。他の連中に、お手本を見せてやれ」 「了解です」  やや緊張気味だが、しっかりした返事がかえってくる。  先陣を切るよう命じられた今村のキ100が、隊列を離れ降下していく。ほどなく排煙筒から漏れる青白い炎が見えなくなる。  空中で黒木たちが固唾(かたず)をのんで見守る中、今村の声が無線から入った。 「…無事、着陸しました!」 「でかした! よし次。林原、行け」  夜の着陸は、昼間よりさらに慎重さが求められる。降りるのに時間を要するとしても、事故を起こして、ここまでの道のりが水泡と化すよりましだ。 「焦らず、降りろ。なあに、いよいよ燃料切れになったとしても、下は地面だ。いよいよ間に合わなくなったら、高度を上げて落下傘で降りて、山道歩いて兵舎まで戻ってこい」  半分、冗談で黒木は言ったが、流石に誰も笑わなかった。  幸い、隊長の言が現実になることはなかった。不適当な高さで滑走路に侵入し、着陸をやり直す機がいくらか出たが、全て無傷で地表に舞い降りた。  その後、蓮田が降り、金本が続き、最後に黒木が滑走路に滑りこんだ。  黒木が乗るキ100が接地した時、計基盤の燃料計の針は完全にゼロをさしていた。そして黒木の着陸後、滑走路の灯りは直ちに消された。  暗闇の中、先ほどまでいた夜空を黒木は見上げた。雲が多くなってきている。もし、天候が些細な気まぐれを起こして、雨を降らせたり、方位を知るための星を隠していたら、ここには辿り着けなかっただろう。  まもなく整備班長の千葉がやってきて、心配顔で操縦席をのぞき込んだ。 「……先ほど、事情を知りました。よくぞ、ご無事で」  黒木はくたびれ切った笑みを浮かべて応じた。 「十年分の幸運を、たった一日で使い果たした気分だ。だが、どうにか賭けに勝ったぞ」

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