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第19章㉚

 黒木が姿を消すのと入れ違うように、近くで砂利を踏みしめる音がした。  金本の横顔を懐中電灯の光が、パッと照らす。 「金本…? どうした、その乱れた格好は?」  声で、金本は上原だと気づいた。 「なんでも、ありません。班長…いえ、少佐どの。大したことではないです」 「とても、そうは見えないが」  上原は、あきれた様子で言った。 「騒ぎが起こって、その場にお前が居合わせたんだ。何事もないわけがないだろう」  その断定は、多分に金本に対する偏見に基づいている。  しかし、上原の言い分は完全にまとを得ていたので、金本としても何も言い返せなかった。 「ケンカだろう? そうだろう」 「…申し訳ありません。同じ隊の者ともめて、言い争いになりました」  相手が黒木であることは伏せた。これ以上、事態をややこしくしたくない。幸い、上原は深く追及する気はないようだった。  そのかわり、 「飛行学校を卒業して、何年も経つのに…いい歳をして、お前というやつは変わらんな」  叱られて、ため息をつかれた。金本が学生で、上原がまだ中尉だった頃のように。  昔と変わらないその仕草に、金本は奇妙に懐かしさを覚えた。  苦い顔の上原に向かって、金本は頭を下げた。 「あの頃は、ずいぶんご迷惑をおかけしました。兄のことでも。おかげで、遺骨を故郷に埋めてやることができました。感謝しています」  それから姿勢を正し、上原に告げた。 「班長どのには、たくさん恩義を受けました。高島中将閣下にも…--お二人に報いるためにも、命じられた任務を遂行します。必ずや米軍の艦船に、突入してみせます」  かつての教え子の思いがけない言葉に、上原は胸をつかれた。  金本は、裏に隠された醜悪な真実を何も知らない。一方、上原は高島を通じて、部分的に聞いている。  参謀部の河内作治大佐が、過去に二度、金本を死なせようとしていたことを。高島がそれを防ぐために、小脇順右少佐ともども、自らの目が届くところに置いたこともーー。  そして今、高島が発作により倒れたことで、河内は混乱する司令部内で、独断専行を再開した。  大佐は、自分を大本営から追いやった者たちに、陰湿なやり方で復讐をしようとしている。そこには高島に長く付き従い、そばで支えてきた上原も含まれていた。高島が入院した直後に、上原は司令部の中枢から排除された。そして、河内の手先ともいうべき小脇と共に、「特別攻撃隊を督撫するため」に、知覧へ遣わされた。今後、福岡へ戻れるかは未知数だ。  そして、河内により振われる復讐の(なた)が、どこまで及び、どれほどの者が刈り取られるか、全く予想がつかなかった。  黒木が飛び出していった後、戦隊長はそのまま部屋に居残っていた。  それは明らかに失策だった。階段の方で短い騒ぎの音がして、それがおさまったと思っていたら、ドンドンという激しいノックの音が響いた。  戦隊長の前に再び姿を現した黒木は、幽鬼のような姿をしていた。転んだのか、はたまた他の理由でか、服は土で汚れ、表情は憔悴し切っている。  詰め寄ってきた部下に、戦隊長は内心、たじろぐ。それを悟られぬために、あえて高圧的な態度でのぞんだ。 「今すぐ出ていけ、黒木! さもなくば、営倉に入れるぞ」  しかし、戦隊長のなけなしの努力は、まったく功を奏さなかった。  黒木は恐れた様子もなく、上官を見すえた。 「…一体、どこの誰だ? 金本を特攻隊員に選んだのは、誰なんだよ?」 「黒木、いいかげんに…」 「あんたは、知ってるんだろう。頼む。撤回するよう、上に嘆願してくれ」  黒木はその場にひざまずき、そのまま床に両手と頭をこすりつけた。  土下座する部下を前に、戦隊長は言葉を失った。 「頼む」  しぼり出すような声で、黒木は言った。 「頼むから、あいつを行かせないでくれ」  部屋の空気が、重苦しく固まる。  それを破ったのは、野卑なせせら笑いだった。 「これは、これは。度しがたい男が、なんとも滑稽で哀れな姿を晒しておるわ」  黒木は、声のした方を振り返る。部屋に入った時、閉め忘れた扉の隙間から、飽食した蛙のような顔がのぞいている。  小脇順右少佐の顔だった。

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