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第19章㉛

 ニタニタと笑いながら、小脇は部屋へ足を踏み入れる。しかし、黒木に暴力を振るわれることを警戒してか、すぐ入口のところでとどまった。 「金本曹長に異常なくらいに執心しているが。あの朝鮮人の男が、そんなに大事か? ん? 貴様の情人(イロ)か?」  黒木は口を開かなかった。小脇がなぜここにいるのか、頭の中が疑問符で満たされ、すぐに反撃するだけの余裕がなかった。  だが一つだけ、直感で理解する。突然、降ってわいた金本の特攻隊入りの話に、この男は間違いなく一枚、噛んでいる。 「なぜ、金本なんだ?」  黒木は、やっとの思いで口を動かす。 「俺とならいざ知らず。金本とてめえの間に、遺恨はないだろう?」  階級が上の小脇に対し、黒木は敬語を使わなかった。傲慢な大尉の無礼な態度に、小脇はたちまち不快さをあらわにする。 「貴様は本当に度しがたい、礼儀を母親の腹の中に忘れてきたような男だな」  小脇には、会話を打ち切って、この場を後にする選択肢もありえた。  しかし、この機会を利用して、黒木を徹底的にいたぶりたいという嗜虐心の方がまさった。 「私はただの使い走りだ。金本曹長に『名誉の戦死』を与えるよう、はからったのは河内作治大佐だ」  小脇は冷笑して言った。 「そもそも、遺恨などあるわけがなかろう。言いがかりも甚だしい。河内大佐のご実家は、三代続けて将官を輩出した生粋の名家だ。かたや金本は朝鮮人で、しかも実の兄が皇太子殿下を暗殺せんとした国賊ときている。特攻隊に入れるのは、大佐どののだ--それに安心するがいい。貴様も遠からず後を追わせてやる。貴様だけでなく、部下たちもだ。一億玉砕のさきがけとなる栄誉を与えてやる」  酔ったように口上を並べていた小脇は、ちらりと黒木を眺める。そして、満足した。  疲弊し、ズタボロになった傲慢な大尉は、色を失い絶望しているように見えた。 「……貴様のその見目のよい(つら)は、娼婦だった母親譲りのものらしいな」  小脇は下劣な見方を、隠しもしなかった。 「今まで、ずいぶん大勢の男が、言い寄ってきたらしいな。おまけに、そのすべてを手ひどく振っただけでなく、強引に関係を持とうとする者には過剰な暴力で応じたと……ふ、知恵の足りぬことだ。せいぜい母親を見習い、媚びを売って(また)を開いておけば、よかったものを。そうすれば、上の人間の寵愛を得て、ずっと楽な立場でいられただろう。いくら容姿や才能に恵まれていても、強い者を味方にできない人間は無力だ。挙句、取るに足らぬ朝鮮人に熱を上げて、つまらぬ私情から、大義を曲げて生きながらえさせようとしている。軍人の風上にも置けぬ卑怯者めが。貴様はとことん間違った道を選び続け、その果てに孤立し、惨めに死ぬ敗北者だ」  黒木に鼻骨を砕かれた経験から、小脇はいつでも逃げられるよう、退路を確保していた。  それでも、飛んできた拳を回避することはできなかった。  黒木の一撃が腹にめり込み、小脇のつま先が床から数センチほど浮かび上がる。少佐の肥満気味の体は、扉にぶつかると、そのまま廊下に鞠のように転がり出た。  もしも黒木の体力が通常時のそれであったら、小脇の内臓は破裂するか、骨が折られていただろう。しかし幸運なことに、致命傷には至らなかった。  ただし、黒木は容赦なく追撃をかけた。殺意だけは十二分にあった。  理性では、黒木も理解している。  舌が動く限り、害毒を吐き散らかし続ける小脇を、この世から退場させられたところで、元凶の河内が無傷でいる以上、状況は何も変わらない。  それでも、腹の底から溢れる破壊衝動を、抑えることはできなかった。  小脇を救ったのは、二人の同格の少佐たちだった。  黒木を追って、戦隊長が部屋から飛び出す。さらにそこに、金本と別れて戻ってきた上原が加勢した。  黒木が彼らに阻まれている間に、小脇は腹を押さえて立ち上がる。  黒木のわめき声に耳をかさず、小脇は一目散に遁走した。

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