401 / 474

第19章㉟

 夕暮れ時、金本は松岡と共に迎えに来た軍用トラックの荷台に乗って、飛行場の外へ出た。向かった先は、前にも「はなどり隊」の面々が宴会を開いたことがある旅館だった。  酒保で買いそろえたか、あるいは特攻隊員の送別会ということで、主計係に話をつけたのかもしれない。十人ほどの参加者に行き渡るだけの酒と食事が用意してあった。  いつもだったら、一人、二人は必ず羽目を外す人間が出てくる。しかし、さすがに今日は常の明るさはかげを潜めている。それでも、各々が気を回したおかげで、重苦しくなりすぎるということもなかった。  酒がすすむにつれて、金本のところに搭乗員たちが次々やって来て、別れの挨拶をした。 「必ず、アメリカの空母を沈めてください」  と言ったのは竹内だ。竹内の実家がある横浜は、つい二日前にB29の大空襲を受け、市街が焼け野原になったと聞く。家族の安否は、いまだにわからないとのことだ。竹内の他にも、金本の操縦技量の高さを知る面々が、特攻の成功を祈願する言葉をかけた。  しばらくすると、誰かが旅館の主人のところから三味線を借りてきた。 「林原。景気づけに一曲、ひいてくれ」 「よしきた」  酔眼をこすりながら、林原は三味線を手にしてあぐらをかく。  元々、楽器をいじるのが趣味と公言している男だ。調布飛行場でも、ピストに中古のアコーディオンを持ち込んでいた。三味線も、子どもの頃に隣家の隠居から手習いで覚えたそうで、ひく姿は中々、さまになっていた。 「歌うのは、やめておくんだぞ」  松岡が釘をさす。演奏のうまさと裏腹に、林原の歌唱力が壊滅的であることを、隊内で知らぬ者がいなかった。  ソーラン節。東京音頭。抜刀隊。加藤隼戦闘隊。春の小川。赤とんぼ……。  民謡から、軍歌、童謡まで、変幻自在だった。  曲が変わるたびに、歌い手も変わる。金本が窓際の柱に寄りかかり、耳を傾けていると、ふと誰かが横にやって来て腰を下ろした。  今村だった。手にしたコップのビールは、注がれてからかなり時間が経っているように見える。金本が新しいのをすすめようとすると、今村は手を振って断った。 「明日の任務にさわるから、もう遠慮しておく。そちらは?」 「俺も明日のことがありますから、ほどほどにしておきます。--改めて、俺と松岡のために送別会を開いてくれて、ありがとうございました」 「礼を言われるほど、大したことはしていない」  今村はそう言って、歌い手たちの方へ視線を向ける。  ちょうど林原の伴奏で、松岡がはにかみながら、柴田と一緒に相馬盆唄を口ずさんでいた。  今村は、ぼそりと言った。 「この場に、黒木隊長がいらっしゃらないのが残念だ」 「…明日の朝。もし時間が許せば、挨拶しておきます」  淡々と言う金本を、今村はちらりと眺める。それから、金本にかろうじて届くくらいの声で、 「明日が雨ならいいな」 とつぶやいた。 「もうじき梅雨だ。明日も、明後日も、いっそずっと雨が降り続ければいい。それなら、米軍機も飛んでこないし、こちらも出撃しなくてすむ」 「…ずっと雨というのも、困りますよ。洪水が起きるし、米や野菜も腐って皆が飢える」 「それくらいの理屈は、わかっている。言ってみただけだ。第一、俺は雨が嫌いなんだ。足が濡れると気持ち悪くてかなわんし、おまけに最近は、折れた肋骨のあたりが痛む」 「奇遇ですね。俺も同じです。古傷がなんとなく痛むから、雨は嫌いだ」  金本は、遮光カーテンのかかった窓の方を見る。 「明日は多分、きれいに晴れますよ。それで、けっこうだと思います。人生の最後に見る空がシケたものじゃ、気分が晴れない」 「…そうか」  今村はそう言って、自分に課した制約を破って、コップに残っていたビールをあおった。  三味線の音が、鳴り響いている。林原は、やはり演奏が上手だ。  そう思う金本は、あることを思い出した。 「メロディを知らなければ、歌に適当に合わせてくれればいい」 「わかりました。やってみます」  林原がうなずく。金本は、はなどり隊の面々に目を向けた。 「--俺が調布に来たばかりの頃、今村少尉どのに約束したことがあった。今日まで果たせずにいたが、これが最後の機会だろうから、ここで歌わせてくれ」  金本は、曲調を思い出すために、少し間を置く。次に口を開いた時、朗々とした歌声が流れ出した。 「アリラン、アリラン、アラリヨ、アリランコゲロ(アリラン峠を) ノモガンダ(越えてゆく)  ナルル(私を) ポリゴ(捨てて) ガシヌンニムン(行く方は) シンリド(十里も) モッガソ(行かずに) バルビョンナンダ(足が痛む)--」  朝鮮の民謡「アリラン」。  人前で歌うのは、一体いつぶりだろうか。少なくとも、日本人の前で朝鮮の歌を歌うのは、これが最初で、最後だ。  歌詞の意味をまともに知っている者は、この聴衆の中に多分、一人もいない。  それでも、明るくゆったりした曲調に隠された哀切は、十分に感じ取れたようだ。全員が、これ以上ないくらい真剣な表情で聞き入り、終わる頃には何人かすすり泣いていた。  その光景を見て、金本は自然に受け入れた。  自分は朝鮮人で、彼らは日本人だ。  そして、どちらも「はなどり隊」の一員であり、生死をともにしてきた仲間なのだ、と。  金本は、目を赤くする今村や他の者たちに告げた。 「明日、俺は皆よりひと足先に、故郷に戻る」  アリランで歌われている白頭山の、その先に--。 「それだけのことだ。だから、そんなに悲しまないでくれ」

ともだちにシェアしよう!