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第19章 36

 帰りの道中、トラックの荷台から、半月のかかった夜空が見えた。車は先に、特攻隊員たちの兵舎の近くへ向かい、そこで金本と松岡を降ろした。  別れ際に、金本は運転席の方まで回り、今村に告げた。 「明日は、よろしく頼みます」  今村は無言でうなずく。それから、まるで上官に対してするような敬礼をささげた。  トラックが去った後、金本は懐中電灯を手に、松岡と並んで歩き出した。しかし、十歩も行かないところで、松岡がおもむろに切り出した。 「すみません。少し風に当たって酔いを覚ましたいので、先に戻って休んでいてください」 「灯りは持っているか?」 「大丈夫です」  松岡は持参してきた懐中電灯を出して、金本に示した。    金本と別れた後、松岡は三角兵舎と反対の方向へ足を向けた。  しばらく歩き、道の先にコの字型の土塁を見出す。空襲の際、爆風から航空機を守る目的で作られた無蓋掩体壕だ。戦闘機は別の場所にあるのか、中は空っぽだった。  松岡は灯りを消し、土塁の下に腰をおろした。夜風に木々の枝葉のこすれる音が、昂ぶる心をなだめてくれる。  そのしらべに耳を傾けながら、松岡は胸の辺りを撫でた。ポケットに一通の手紙が入っている。先日、空襲で亡くなった恋人が、最後に送ってくれた手紙だ。幾度となく読み返し、綴られた言葉だけでなく、愛らしい文字の形すら覚えてしまった。  目を閉じると、愛する(ひと)の姿と一緒に、その字が柔らかな腕となって、優しく包んでくれる気がした。  …人が近づいてくる音を聞き取って、松岡はしばし目を開けた。  うっすらと輪郭しか識別できないが、間違いない。先ほど別れた金本が、灯りもつけずに飛行場の方へ続く道を歩いていく。後ろ姿が去ったのを確認し、松岡はほっと息をついた。  金本と黒木の間柄が、単なる部下と上官にとどまらないことを、薄々、察していた。  きっかけとなったのは、一本の懐中電灯だ。  黒木がB 29に対する特攻を成功させ、生還した翌朝、松岡は今村と一緒に黒木の下宿を訪れた。その時、下宿の畳の上に、見覚えのある懐中電灯が転がっていることに気づいた。  それは前の晩、病院へ戻る金本に今村が貸した隊の備品だった。  あの時、金本は病院に戻らず、黒木の下宿にいたのである。どうして、黒木がそれを隠したのか、その時点ではまだ分からなかったが……。  時間の経過とともに、松岡は徐々に理解していった。  自分は何をしているのだろうと、金本は自問自答する。  それでも、歩みは止まらない。寂寞とした滑走路脇を進み、やがて闇の中に平屋建ての庁舎の姿が現れた。  金本はできる限り気配を消して近づいた。この建物のどこかに、黒木がいる。しかし、どこに? ぐずぐずしていたら、いずれ見回りの兵に見つかってしまうだろう……。  うかつなことをせず、おとなしく引き返すべきではないか。  そちらに考えが傾きかけた時、暗闇の中に白いものが淡く漂っているのが目に入った。  窓辺のひとつに、花が置かれていた。  金本は知らなかったが、それは白い花弁を持つ珍しい紫蘭だった。  そして花の名は知らなくとも、誰が置いたかは明らかだった。  甘い香りに誘われる蜂のように、金本は花の方へ向かい、窓辺のそばに立った。窓が、半分空いている。むき出しの遮光カーテンの向こうに、人の気配がする。  金本は今一度、白い紫蘭を見る。  触れれば、もう引き返せない。そう分かっていて、硬い茎を手に取った。  花を持ち上げる武骨な手に、室内の人間の手が重なる。カーテンの隙間から、花にも劣らぬほど白く美しい顔がのぞいた。  ほんの刹那の間、黒木と金本は互いを見つめ合った。  直後、まるで示し合わしていたかのように、金本が地面を蹴り、黒木がその背中に手を回して、部屋の中へいざなった。

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