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第20章⑨
今村は、国鉄の京橋駅で降りた。
京橋には、戦争の爪痕が今も生々しく残っている。終戦前日の八月十四日、近くにある陸軍砲兵工廠を標的とし、B29の大規模編隊が大阪市内を襲った。最悪なことに空襲の最中、高架下にあった京橋駅のホームは、停車した電車から避難してきた乗客ですしづめ状態にあった。 そこに高架を突き破って、一トン爆弾が落ちてきた。
一瞬で数百人の人間が命を落としたと、今村は聞いていた。犠牲者の正確な数すら不明で、遺体の多くは損傷が激しすぎたため、今も身元がわからないという。
近道をするために、今村は線路沿いに広がるヤミ市を通り抜ける。そのまま五分ほど歩くと、下宿している木造アパートが見えてきた。造りは安っぽいが、建てられてまだ一年ほどしか経っていない真新しい物件で、すでに全部の部屋が借家人で埋まっていた。
二階の真ん中の部屋を、今村は借りていた。そこにたどり着く頃には、空腹を覚えはじめていた。遅めの朝食を食べたきり、今日は何も食べていないことを思い出す。
鍵を開け、中に入りながら、今村は夕飯をどうしようかと考えた。ヤミ市に行けば大抵のものは手に入るが、給料日まで何日もあることを考えると、あまりぜいたくはできない……。
その時、顔に風が吹きつけてきた。今村は外出する時、窓を閉める。今日もそうしたはずだが、なぜか半分開いていて、カーテンがゆらゆらと揺れていた。
「……?」
不審に思ったが、特に警戒もせずに、靴を脱いで部屋に上がる。きっと尋問のことに気を取られて、閉め忘れたのだろうと、思った…。
その途端、死角から飛び出してきた人間が、今村の肩をつかんで壁際に押しつけた。
完全な不意打ちだった。
「シっ。騒ぐな」
人差し指を口に当て、その人物は今村を脅しつけた。抵抗されることを心配していたのなら、それは杞憂だった。
あまりに驚きすぎて、今村は動くどころか、とっさに声を出すことすらできなかった。
…今村と相対したカナモトは、思いがけず懐旧の念を覚えた。
二年の歳月が流れたが、「はなどり隊」の元副隊長はあまり変わっていないように見えた。陰気な色の背広を脱ぎ捨てて、軍服と飛行服を着せたら、そのまま、あの頃のように戦闘機を駆って空を飛べそうだ。もっともカナモトの願望が、そう錯覚させているだけかもしれないが…。
今村の方は、カナモトを目にしても、ちっともうれしそうではなかった。むしろ、幽霊でも見たみたいに怯えている。まあ、予想していた反応だ。
蓮田が偶然を装って今村に会いにいった時、カナモトの生存していることは、明かさなかった。今回の計画に、今村はふさわしくないと蓮田が判断したからだ。それは正しかったとカナモトも思った。
今村は過去を引きずっているが、ちゃんと前を向いて新しい人生を歩もうとしている。
カナモトや、他の人間たちと違って…。
カナモトはちゃぶ台に目をやり、そちらに座るよう今村にうながした。昔の仲間に、あまり乱暴な真似はしたくなかったが、逃げ出そうとされたり、暴れられたりしたら、相応の対応をしなくてはならない。
カナモトから漂う剣呑な雰囲気を感じ取ったか、あるいは他の理由でか。今村はおとなしく、不法侵入者の言葉に従ってくれた。
「…生きていたんだ」
座った後、今村の第一声がそれだった。それから、カナモトをにらむような視線を向ける。
どうやって、居場所をつかんだのか? ーー今村のその問いを、カナモトは持参した饅頭をちゃぶ台に置くことで、はぐらかした。さすがに真実は教えられない。
今朝方、カナモトを追い回しているアメリカ軍人の宿泊先に侵入し、鞄をあさる内に今村についての資料を見つけ、現住所も知ったことを、明かすわけにはいかなかった。
カナモトは饅頭を手にし、今村にもすすめた。
「食べながら、話す」
カナモトが言うと、今村は諦めたように一つかじって、たちまち平らげてしまった。よっぽど空腹だったのだろう。今村が遠慮がちにもう一つ食べる間に、カナモトは特攻隊員として出撃してから、終戦を迎えるまでのことを、かいつまんで話した。
今村は、黙って聞いた。饅頭を食べ終えても、自分から口を開こうとしなかった。
相手のそんな態度を見れば、カナモトもある程度のことを、察せざるを得ない。
今日はどこで何をしていたのか? ーーカナモトの質問に、今村はGHQに呼び出されて尋問を受けたと、答えた。
それから、ようやく腹の中の疑問を口にした。
小脇と、そして河内という大佐を殺したのか、と。
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