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第20章⑬

 今村が告げた場所は、淀川の河口を少しさかのぼったところにあった。空襲の時に焼けた市電の残骸が目印で、その奥に、かつてゴムタイヤを作っていたという廃工場が、巨象の死骸のように横たわっている。  クリアウォーターたちが到着した時、そこには対敵諜報部隊(C I C)の要員に加え、付近の警察署から緊急招集された日本人警官たちがいた。合わせた数は二十人ほどで、ただの殺人犯を捕まえるのなら、十分な人数と言える。しかし、カナモトはありきたりの犯罪者にはほど遠く、今回に限っては、当てはまりそうになかった。  さらに、別の深刻な問題が発生していた。対敵諜報部隊(C I C)の要員たちの中で、もっとも階級が高い大尉が、付近にある公衆電話にクリアウォーターたちを導いた。 「我々が一番早く到着しましたが、その時にはすでに通報者の姿がありませんでした。そのかわりに……」  大尉は小銃の銃口で地面の一角をさす。そこだけ不自然に濡れている。かがんだクリアウォーターはすぐに血の匂いを嗅ぎとった。そして、濡れた部分から何か重いものを引きずった跡が、廃工場の敷地へ向かって伸びていた。  さして推理力がない人間でも、ここで何が起こったのか、容易に想像できた。通報してきた今村は、カナモトに見つかって拉致されたようであった。 「ただちに突入し、殺人鬼の身柄を確保すべきです」  対敵諜報部隊(C I C)の大尉は主張した。それに対し、クリアウォーターは意外にも同意を示さなかった。 「応援の人間が到着するのを、待つべきだと思う」 「そんな悠長に、かまえていられません」  大尉は言った。 「ぐずぐずしていたら、カナモトに逃げられてしまいます。それに連れ去られた通報者は、まだ生きているかもしれない。なおのこと、時間をムダにすべきではないでしょう」 「我々に密告されたと気づいた時点で、カナモトは逃げたと考えられないかい?」 「…つまり、奴はもう工場内にはいない、と?」 「私はそう思う。ただ、そうだとしても、腑に落ちない点は残るが……」 --なぜ、カナモトは我々に追いつかれる危険をおかしてまで、今村を連れ去ったのか。  殺したにせよ、怪我をさせるにとどめたにせよ、公衆電話に放置しておけばいい。それとも、追手たちを撹乱させる目的で、あえて拉致する手間をかけたのか……? 「どのみち、工場内部の状況確認は必要です」  大尉はそう言って、車に積んできた無線機へ向かった。上官と話し合う声が、途切れ途切れに伝わる。その様子を、クリアウォーターはうかがっていたが、やがて大尉が戻ってきた。 「周辺に非常線を張るよう、手配しました。対敵諜報部隊(C I C)と警察の応援は、そちらへ向かいます。その間に、我々は工場内へ突入します」  クリアウォーターはわずかに肩をすくめ、「オーケイ」と答えた。  その時、クリアウォーターのそばで控えていたカトウが、はじめて口を開いた。 「クリアウォーター少佐。俺も、工場内の確認に同行します」 「…ちょっと、待ちなさい。何を言い出すんだ?」  クリアウォーターにとがめられても、カトウは動じなかった。 「この中で、実際にカナモトの姿を目にしたことがあるのは、巣鴨プリズンでやつに遭遇した少佐と俺だけです。そして、俺は多少、銃器の扱いに長けています」 「だめだ。君の仕事は、私の通訳と護衛。そうだろう?」 「そして進駐軍の一員として、殺人犯を捕まえるために、最大限、努力する義務があります」  その言葉に、クリアウォーターはとっさに反論できなかった。  カトウはクリアウォーターから目をそむけ、大尉の方を見やる。クリアウォーターとほぼ同年と見える男は、大きく頷いた。 「軍曹がいてくれれば、我々としては非常に助かります。彼の身をお借りできますか?」  カトウは貸し借りするものじゃないと、クリアウォーターは内心、(いきどお)った。しかし、カトウや大尉の主張が理にかなっていることを、認めないわけにはいかなかった。  クリアウォーターは、廃墟となった工場の残骸を眺める。今も、カナモトがとどまっているとは考えにくい。巣鴨プリズンで、正体が発覚したと悟った瞬間、カナモトは躊躇なく逃げ出した。今回も同じ行動をとっている公算はかなり高く、カトウを向かわせても危険はないはずだ……。  そう考えてもなお、嫌な予感がつきまとって離れない。  何か……今のこの状況そのものについて、まがい物めいた印象がぬぐえなかった。だが、その正体を突きつめるだけの時間はない。  水際で、クリアウォーターはささやかな抵抗を試みた。 「カトウ軍曹。私としては、君にはここに残って欲しいんだが」 「それは命令ですか?」 「…いや」  クリアウォーターは、カトウにだけ通じるよう日本語で言った。 「ただの私のわがままだ。だめかい?」  カトウは表情を変えず、無言を貫いた。クリアウォーターは、ため息をつく。カトウの態度が少し軟化したと思っていたのだが、どうにも過度な期待を寄せすぎたようだった。 「ーー分かった。気をつけて行ってきなさい」

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