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第21章① 一九四五年六月
金本は、生ぬるい水の張られた洗面桶を見つめた。表情の欠けた男が、こちらを見返してくる。それを壊すように、手で水をすくって顔を洗った。
すでに日が上り、あたりは明るくなっている。手ぬぐいで顔を拭いていると、誰かが近づいてくる気配を感じた。振り返ると、松岡がそこにいた。
「おはようございます」
「ああ。早いな」
「早く目が覚めました。曹長どのは、眠れましたか?」
「…少しは」
嘘だった。眠ろうとしたが、結局、一睡もできず、金本は朝を迎えた。ひどい顔をしているだろうに、松岡はそのことに触れず、淡々と顔を洗い始めた。
金本は何も言わず、その場からそっと離れた。話をする気分ではなかった。それ以前に、特攻に行くことに迷いのない松岡の隣に立つことが、いたたまれなかった。
何時間か前に黒木と交わした言葉がずっと、金本の頭の中をぐるぐると回り続けていたーー。
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「中山と千葉を協力させて、お前が乗る『隼 』に積めるぎりぎりの燃料を入れさせた。それを使って故郷の朝鮮まで飛んで、そのまま戦争が終わるまで隠れて生き延びろ」
「……何を言ってるんだ? 中山や千葉軍曹を協力させたって…」
黒木は、混乱する金本の肩に手を置き、布団の上に身を起こさせた。
「いいか。中山のやつは、お前を気に入っている。千葉は元々、特攻そのものが嫌いだ。お前を生き延びさせたいと伝えたら、二人とも力を貸してくれた」
「伝えるもなにも…お前、今日一日、ずっとここで謹慎してたんじゃなかったのか!?」
金本の反論に、黒木はこの日はじめて笑みに近い表情を浮かべた。
「鏡だよ」黒木は、種明かしをした。
「靴の中に手鏡を二枚、忍ばせて持ち込んだ。それを使って、駐機場にいた中山にモールス信号を送って、そこの窓に呼びつけた。その後、具体的に何をしてほしいか書いた紙を渡した」
あっけにとられる金本に、黒木は言葉を継いだ。
「お前も知ってるだろうが。『隼』は燃料を満載すれば、増槽なしでも千六百キロ飛べる。荷物になる爆弾を捨てさえすれば、途中で進路を北にとっても十分、朝鮮までたどり着けるはずだ。お前の技量をもってすれば…」
そこまで言って、黒木は金本の反応をうかがう。ある程度、予想していたが、相手に少しも喜ぶ兆候はなかった。
金本は口元をわななかせ、やっとの思いで「バカなことを…!」と吐き捨てた。
「逃げたことが露見したらどうなるか、少しは考えなかったのか!! 見つかって捕まったら、俺だけじゃない、家族にも累が及ぶんだ。おまけに中山や千葉軍曹まで巻き込んで…冗談じゃない。下手をしたら、全員処刑されてもおかしくないぞ!!」
「そうなりたくなかったら、ばれないように、全力で逃げ切れ」
絶句する金本に、黒木は告げた。
「いいか。筋書きはこうだ。知覧を出発して三十分くらいしたら、エンジンに不調をきたしたフリをして、速度を落とせ。その時、俺が近づいて、手信号で飛行場へ戻れと指示を出す。その後、隊から離脱しろ。あとは、さっき言った通り北上するんだ。明日の出撃予定時刻は午後二時らしいが、多少遅れが出る。できる限りゆっくり飛べば、お前が朝鮮南岸にたどり着く頃には、夕暮れだ。そのまま、海岸線づたいに飛べるところまで行って、あとは機体を捨てて、落下傘で脱出するんだ。ああ。高射砲にだけは当たるなよ」
「……無茶だ」
「無茶? ふん。レーダーを張っている米空母に突っ込めっていう方が、よっぽどめちゃくちゃだろうが」
「俺だけ逃げろと言うのか?」
その言葉に、黒木ははじめて金本から目を逸らした。
頭に血がのぼった金本は、肩に置かれた黒木の手を振り払った。
「松岡や他の特攻隊員を見捨てて、俺だけ逃げ伸びろと? そんなこと、卑怯者がすることだ」
「じゃあ、このまま唯々諾々と死んでいいのかよ、お前は!?」
黒木は引き下がらなかった。
「本当は、死にたくないんだろ。なあ…」
金本は何も答えない。うなだれる恋人を、黒木は静かに抱きしめた。
「……お願いだから。言う通りにしてくれ、蘭洙。卑怯者は、俺も同じだ。他の搭乗員を行かせて、お前だけ引きとめるんだから。死んだ連中にも、これから死ぬ連中にも、顔向けできねえよ。ーーそれでも、お前を失うのだけはだめだ。そうなったら、多分、俺は狂っちまう。狂って、きっとお前のあとを追う」
脅しと言うには、あまりにか細い声だった。
「恨むのなら、恨んだらいい。生き残って、そのことを後ろめたく感じるのなら、その怒りを俺にぶつけろ。殺したいくらい憎くなったら…そうしたらいい。だから、頼む。俺のために、卑怯者になって生き延びてくれ」
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