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第21章③
午後一時半。特攻機と直掩機の準備が整った。直掩機に乗る「はなどり隊」の面々や、「らいちょう隊」の蓮田たちが姿を見せ始める。滑走路の周囲でも、見送りに集まった人間が次第に増え始めた。
「いよいよですね」
松岡が金本に言った。金本からの返事はなかったが、松岡は気にしなかった。
金本は、たった一人の人間のことを見つめていた。
一時的に謹慎を解かれた黒木が、飛行服を身につけ、群衆の間から現れた。その姿は、あいかわらず泥に浮かぶ蓮花のようだ。そこだけ、異質で美しい。
黒木はいつもより少しゆっくりした足取りで、金本たちの元へやって来た。五人の特攻兵が敬礼する。答礼した黒木は、彼らの顔を一人一人、見ながら言った。
「十二機の『キ-100』が、途中まで援護する。各々が、己のなすべきことをやり遂げられるよう、祈っている」
「…ありがとうございます」
特攻隊員たちを代表して、金本が答えた。
周りに人の目がある。たとえ、言いたいことがあったとしても、それを口には出せない。金本にできるのは、この別離を目に焼きつけるだけだ。
黒木栄也。鬼神のごとき、荒々しい戦い方をする戦闘機乗り。部下たちの心服を集める美貌の飛行隊長。傲慢で、暴力的で、時に少年のように笑う、心に寂しさを抱えた男--。
別れのあいさつを終えた黒木は、きびすをかえそうとする。その足が途中で止まって、再び金本の方へ向いた。
金本が反応できない間に、黒木はその身体を強く抱きしめた。
「--サランへ 」
金本にだけ聞こえるくらいの声で、黒木はささやいた。
金本は目を閉じ、黒木の背中に手を回した。
何か言ってくれるのではと、黒木は期待した。しかし、金本は沈黙を保ったまま、黒木から身をひいた。
口を引き結んだ顔からは何を思っているのか、読み取ることができなかった。
…金本は『隼』の狭い操縦席におさまった。回り始めた発動機が、轟音を上げている。いつもなら、座ってすぐに無線電話をつなぐが、すでに重量軽減と機材温存のため、昨日のうちに特攻機から外されている。機銃も。
その代わり、胴体下には二百五十キロ爆弾が懸垂されていた。自分が今、乗っているのは戦闘機ではなく、敵艦めがけて飛ぶ砲弾なのだということを、金本は改めて思い知らされた。
操縦席から、金本は周りを見渡した。離陸すればもう、誰とも言葉を交わすことはない。沖縄へ飛ぶ松岡たちとも、途中まで援護する今村や蓮田、そして黒木たちとも…。
「………」
金本はいつも携えてきた手帳を取り出す。それに持っていた鉛筆で短い言葉を書き足すと、そばにいた整備兵を大声で呼んだ。
離陸した後、金本は操縦席の中で我知らず、脱力した。
やるべきことは、やった。あとは飛ぶだけだ。
風防の外は、凪いだ海のように穏やかだった。眼下にはわずかな雲があり、その下に本物の海が広がっている。
「チョウンハヌリダ 」
金本は朝鮮語でつぶやいた。もう、日本語を使わなくてもいい。
久方ぶりに、空にいて自由を感じた。
果てしない蒼穹と、まぶしいくらいに生命力に溢れた太陽の光。騒がしい発動機の音さえ、今は子守歌のようだ。
このまま死んでも、そう悪くないーーそんな風に、思えてしまえる。
しかし、次の瞬間、無性に泣きたくなった。
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