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第21章④

 生きたい、と金本は思った。多くの者を危険にさらしても、たとえ卑怯者と後ろ指をさされても、生きたいという衝動を抑えきれなかった。  うなだれ、飛行時計に目をやる。離陸して半時間。決断の時だった。  しかし、再び顔を上げ、風防の外に目をやった時である。  紺碧の天空に、針でついたくらいの小さな染みを見出した。  その瞬間、まるでスイッチが切り替わるように、悲しみが消えた。そのかわり、事態に対処できるだけの警戒心と冷静さが戻ってきた。  金本は急いで操縦桿を引くと、直掩隊を率いる黒木のキー100のそばへ近づいた。  時速三〇〇キロで飛ぶ機体の真横につけると、操縦席に座る黒木の姿が見えた。飛行眼鏡をかけた顔が、(はやぶさ)の方に向く。金本は手信号で、自分が見たものを伝えようとした。  ところが、黒木は事前の打ち合わせ通り、金本が機体の不調を訴えにきたと、早合点したようだ。ろくに吟味もせず、すぐに<飛行場・戻れ>の手信号を出す。  金本はいら立ち、大きく手を振った。とっさに表情が見えた方が伝わると思って、飛行眼鏡を上げ、声を張り上げた。 「くじら(B29)だ! く・じ・ら!!」  発動機の爆音で、とてもではないが声は届かない。それでも口の形で伝わったようで、黒木の表情が一変した。 <くじら・(いち)・十時方向・距離一○○(十キロメートル)>  金本からの再度の手信号で、やっと黒木は異変を察知し、示された方向を目を向けた。 --こんなところに、B29が? 九州への偵察機か?  目視確認した黒木の心に、疑問があふれる。しかし、迷ってはいられない。無線のスイッチを入れると、「--直掩隊各機へ」と呼びかける。 「十時方向に、くじら(いち)。距離一〇〇。こちらに気づいているか、分からない。距離を保って飛べ--」  そう伝えながら、並行して飛ぶ金本の操縦する隼を振り返る。 --何している、蘭洙! 早く故障したフリをしろ…!!  ここまでの飛行距離を考えれば、そろそろ進路を北に取らねばならない。さもなくば、朝鮮沿岸にたどりつくより先に、燃料切れを起こす危険が高まる。  しかし、金本は相変わらず黒木から離れない。まるで、指示を待つように。しびれを切らした黒木は<戻れ>の手信号を送った。  金本は手を振り、離れた。そして、そのまま特攻機たちの先頭に位置を取ると、元のように編隊飛行にうつった。一部始終を見ていた黒木は、焦りと怒りを覚えた。 --まさかこのまま、沖縄へ飛ぶ気か!?  正気かと、思った。金本が死んだら、金本本人も、黒木も救われない。  黒木は歯がみし、これ以上ないくらい腹を立てた。 --どうする? どうすれば、蘭洙の気を変えさせられる…?  黒木の頭は、そのことでいっぱいになった。B29の存在は無論、留意していたが、こちらに近づいてこない限り、すぐに脅威にはならないと考えていた。  だが、その認識は甘かった。  B29が現れた理由を、もっと深く分析すべきだった。  B29は長距離爆撃機であるが、爆弾を落とす以外の目的でも飛行する。敵地への偵察、そして……--飛行中に航法ができない単座式戦闘機を、目的地まで誘導することだ。  黒木が金本を翻意させるべく、考えをめぐらしていた時だ。当の金本が、再び黒木のそばに近づいてきた。  金本は手を振り、黒木の注意を引くと、そのまま手信号も出さずに、高度を上げた。  ちょうど、太陽がある方向に向かって。  金本の(はやぶさ)を目で追った黒木は、眩しさに目を細めた。それから、ようやく気づいた。  光のカーテンに身を隠して、こちらへ近づいてくる白銀の死神たちの存在に。

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